冬と春を分ける最も寒い節分(立春の前日:現在のグレゴリオ暦の2月3日頃)は丑と寅の間(艮=うしとら)であり、夏と秋を分ける最も暑い節分(立秋の前日:現在のグレゴリオ暦の8月7日頃)は未と申の間(坤:ひつじさる)です。
十二支は時間と共に方位を表すことから、北東(艮)の方位を鬼門、南西(坤)の方位を裏鬼門と言います。古代人は最も死亡リスクが高い季節を表す方位を鬼門・裏鬼門として畏れていたのです。
そして最も過ごしやすい春と夏を分ける節分(立夏の前日:現在のグレゴリオ暦の5月5日頃)および秋と冬を分ける節分(立冬の前日:現在のグレゴリオ暦の11月7日頃)に対応する方位を陰陽道では神門・裏神門と呼びました。
この邪悪/神聖な季節を古代人が【日出】【日没】の方位によって把握していたことは想像に難くありません。
日本列島が位置する緯度では、鬼門の季節、太陽は東から南に約20度回転した方位から昇り、西から南に約20度回転した方位に沈みます。一方、裏鬼門の季節、太陽は東から北に約20度回転した方位から昇り、西から北に約20度回転した方位に沈みます。電灯がなかった時代、古代人は太陽が昇り沈む方位を確認することがルーティンワークであったものと推察されます。
さて、以上の知識をもった上で、弥生時代から古墳時代への移行期において、出雲と大和で本格的な太陽信仰があったと考えられる蓋然的な根拠について示したいと思います。
出雲と大和の位置関係まず、着目するのは出雲の意富郡(おう)に位置する熊野大社(熊野坐神社)です。出雲で最も有名な神社といえば出雲大社(杵築大社)を思い浮かべる人が多いと思われますが、実は、出雲風土記によれば、出雲で最も格式が高い神社は、出雲大社(出雲二之宮)ではなく、熊野大社(出雲一之宮)なのです。熊野大社は、出雲の熊野山の【磐座(いわくら)】に熊野大神を祀ったものです。
ここで、熊野大神とは出雲の王族を想起させる素戔嗚尊(=スサノオ)を指すと言われています。また、磐座とは、神が降臨して鎮座するとされる岩体であり、神が鎮座する建物である【神社】という概念がない時代から存在する最も原始的な礼拝施設です。