戦友会が刊行する回顧録のために、戦地での体験を聞き手が取材して回る巡礼形式で、物語は進んでゆく。その点は、誰もがご存じの百田尚樹『永遠の0』(2006年)とも重なる構成だけど、昔書いたように、あることが決定的に異なっている。

『軍旗はためく下に』で、元兵士たちはしばしば言い澱み、発言と「内面描写」とで食い違った内容を話す。『永遠の0』は、もちろんそうじゃない。まるでWikipedia の項目を読み上げるかのように、全員が饒舌かつ平板に「正しい史実」(めいたもの)を教えてくれる。

簡単には伝えられない体験があり、そこにこそ戦争の本質がある。戦争の記憶が風化するとは、そうした自覚が薄らぎ消えてゆくことを指すのであって、「いや俺は知ってるし」「戦争ものはまだ売れる」「ウクライナで新たな需要が」みたいな話は関係ない。

1927年生で、病弱な結核持ちだった結城には、徴兵された体験はない。だから執筆のために取材を申し込んでも、「われわれの話を飯のタネにされてたまるか」と、当初は拒まれた。しかしわずか一週間だが、志願して海軍に入った履歴のおかげで、ようやく証言を得られたと回想している。

2020年からのコロナ禍では、お安い「戦争」の比喩がメディアに飛び交い、22年にウクライナで始まった(本物の)戦争でも、シャンパン片手のお気軽な解説をセンモンカが配信していた。それらのほとんどは、後で振り返られもしない無価値な内容で、そこだけはかつての戦争に似ている。

……もう、いいでしょ。いま戦争を扱う上で必要なのは、むしろいちど黙ることだと思う。自分はほんとうに「わかっていた(いる)のか?」と問い直さずには、語るに値する議論は生まれまい。