中根〔1967:44-45〕は、同一企業の従業員であるという一体感が労使や職種の別よりも優越している、タテ型組織としての日本の会社のあり方のルーツを、一九〇九年に後藤新平総裁が提唱した「国鉄一家」や、戦時中の産業報国会に見出し、さらにそのデメリットとして、「他の会社に移りたくとも、そのルートがない。 すなわち職種別組合的な『ヨコ』の同類とのつながりがないから、情報もはいらないし、同類の援助もえられない」点をあげ、「嫁いできた日本の嫁の立場に似ている」と評している。
(中 略)
なぜ日本では「タテ型」の組織が成立した場合に、ヨコ型の人間関係が常に寸断され続けるのか、という問題を考える上では、日本におけるヨコ型の職縁的紐帯が、あくまでも社会全体の「中国化」という文脈の中で浮上するエフェメラルな存在であったと解釈するのが、最もわかりやすいと思われる。 例えば桜井英治〔1996:216-229〕によれば、中世後期の「座」のような商人の同業組合は、間地域的な職縁集団(すなわち、ヨコ型組織)であったが、結局は近世初頭にかけて、地縁結合による町共同体(本稿の文脈では、タテ型組織)との競争に敗北し、その支配を受け入れることになった。
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拙論ではこの後、明治末に叢生した最初期の労働組合は(欧米と同じ)職種別のヨコ型だったのに、大正を転機として企業別のタテ型に入れ替わっちゃうという話が続きます。2008年にリーマンショックが起き、雇用や格差がいちばん熱く論じられた時期の執筆ですから、「タテ社会かヨコ社会か」は、まさに目の前で展開するリアルな課題でした(ヘッダー写真の頃です)。
アイデアのオリジナルにあたる、中根千枝の論文からは、今年で60年。上述の私の論文から数えても、早くも15年。その間に日本が抱える問題の構図は、どこまで変わったでしょうか。
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