言葉を変えれば、候補者たちが当選した後に「立派な構想を示して政策を立案したり、当該政策をしっかりとしたマネジメントの下で実現していったりする能力」を見極めて投票するのではなく、選挙戦で如何に目立っているか、短期的な鋭い訴えがあるか、主張がわかりやすいか、などの要素で各有権者は投票をしてしまうという事態に陥っている。
② そうなると、立候補者サイドとしては、どのようにして、選挙戦で有権者の注目を集めるか、ということが鍵になり、その際、最も有効な手が、いわゆる「バズる」(人々に広まる)ことを効率的・効果的に実施する、ということになる。当選後を見据えた真面目な公約づくりは相対的におろそかになる。
今回の都知事選でも、「切り抜き動画」が若い層を中心にかなり広まったと言われているが、如何に印象に残る言動を短く行い、それを更に切り取った動画などを人々の間に広めるか。それが選挙の勝敗の分かれ目となる。選挙後の構想より、選挙までのPRが益々重要になっている。
③ そうだとすると、有権者に対して、当該地位に就いたあとの政策構想力や立案力、その実現・実施力を訴えるよりも大事なことが「如何に目立つか」ということになる。そして、最も目立つ手段が、分かりやすい二項対立状況を設定し、自分を正義、相手を悪と規定して、敵を論難することになる。日本よりも、悪しき民主主義が「先行」してしまっているアメリカで特に如実だが、この手法が浸透すればするほど、社会の分断が深まるのは自明である。
つまりは、事後の政策実現力よりとにかく選挙戦でのPRが大事になってしまっていて、そのために、相手を論難して対立構造を明確化し、社会の分断を深める、ということが構造化・日常化してしまっているのだ。
そして、小池氏も、石丸氏も、蓮舫氏も、見事に「PR」の人を演じきった。というか、元々それを得意としている人たちが選挙に出て来た。PR合戦という意味では、最初の出馬時点のタイミング論や駆け引きなど、とても見ごたえのある選挙戦であったが、それは有権者にとって本質的メリットをもたらすものなのだろうか。