大東亜戦争時の日越関係

なぜベトナムは親日的なのか? :日越友好関係の歴史と反省(金子 熊夫)
(画像=『アゴラ 言論プラットフォーム』より引用)

次に日越が直接関係するのは大東亜戦争(太平洋戦争)の時です。前回の本欄で触れたように、日本軍は日米開戦の1年半前に、当時仏領インドシナ(仏印)と呼ばれていたベトナムの北部(ハノイ周辺)に進駐。その一年後の1941年7月、つまり真珠湾攻撃の5カ月前に、南部ベトナム(サイゴン周辺)に進駐しました。

これは米英側からすると決定的な”レッド・カード”だったわけで、その結果米英等との関係が一気に悪化し、日米開戦に繋がったことは前回説明した通りですが、日本側からすれば大東亜共栄圏を確立するためには戦略的に重要なステップでした。

しかし、実際には、当時フランスはヨーロッパ戦線でドイツに完敗し、日本とアジアで戦う余力が無かったので、日本軍は事実上全く抵抗を受けずに進駐しました。だから、ベトナム本土ではほとんど全く戦闘は行われず、ベトナム人に危害が及ぶことはありませんでした。

なぜベトナムは親日的なのか? :日越友好関係の歴史と反省(金子 熊夫)
(画像=日本軍の南部仏印進駐(1941年7月)
出典:Wikipedia、『アゴラ 言論プラットフォーム』より引用)

その点で、日・米英の激戦に巻き込まれ甚大な被害を蒙ったフィリピン、シンガポールなどとは異なり、日本軍はむしろベトナム人から歓迎されたようです。(ただし、ベトナム在住の中国人、いわゆる華僑の中には蒋介石シンパがいて、彼らが日本軍によって摘発され、場合によって殺害されたケースもあったことは確かなようです。)

さらに、1945年8月15日に日本が連合軍に降伏し、軍隊がベトナムから引き揚げた後も、一部の日本兵(700~800名といわれますが、正確な人数は不明)は、旧宗主国のフランスに抵抗するベトナム独立同盟(ベトミン)に協力を要請されてベトナムにとどまり、抗仏戦争(第1次インドシナ戦争1946~54年)に参加し、弾薬の製造や民兵の訓練などを担いました。そのことは年配のベトナム人はよく覚えており、今でも感謝の気持ちを持っているようです。

これらの残留日本兵の多くは、その後も帰国せず、現地で家庭を持ちましたが、東西冷戦を背景に半ば強制的に日本へ送り返され、家族は離れ離れになりました。

私がサイゴンの日本大使館で勤務していた1960年代半ばでも、そうした残留日本兵の生き残りがいて、彼らや彼らの現地家族から体験談を聞いた記憶があります。なお、平成天皇(現在上皇)ご夫妻が2017年の訪越時にこれら現地家族と特別に会われたことはご存知の通り。