ファン・ボイ・チャウと東遊運動
次に日越の人的交流が復活するのは、日本が開国した明治維新以後で、特に日露戦争(1904~05年)で日本が勝利してからは、アジア諸国の有為の若者たちが「東洋の大国日本に学ぼう」と多数来日しました。
当時アジアの多くの国は西欧列強によって植民地化され、その圧政に苦しんでいました。とくにアヘン戦争(1840~42年)で敗北した中国(清)は英国など西欧列強に散々蚕食され、悲惨な状況でしたが、ベトナムもフランスの植民地となっていたので、フランスの支配から脱するため革命運動を起こそうとした若き民族主義者たちが次々に日本を頼ってやってきました。
その中で最も有名なのはファン・ボイ・チャウ(潘佩珠1867~1940年)で、ホー・チ・ミンより1世代前の革命家ですが、彼は、ベトナムの若い革命家を日本に留学させるための「東遊(ドンズー)運動」の先頭に立って、1905年に初来日し、犬養毅、大隈重信などの有力政治家に会って援助を求めました。
この時期、財政的に困窮していたファンに親身に援助の手を差し伸べたのは、静岡県(現在の袋井市)出身の医師・浅羽佐喜太郎(1867~1910年)です。
二人の親密な交友関係は最近テレビドラマにもなっているのでご存知の方も少なくないでしょう。(なお、佐喜太郎の郷里、袋井市浅羽町の定林寺には、佐喜太郎没後チャウがひそかに再来日して建てた報恩・追悼碑が建っているので、是非一度見学してみてください)
ところが、こうした個人レベルの友好関係にもかかわらず、当時の日本政府はフランスと日仏協約を結んでいたため、フランス側の要請に応じてチャウを国外追放。傷心のチャウは恨みを抱いて日本を去りました。この出来事は、現在の日越友好ムードの中で忘れられたエピソードとなっていますが、我々日本人としては心に留めておくべきことでしょう。
なお、日露戦争の勝敗を決した日本海海戦の際にも、はるばる地球を半周して遠征してきたロシアのバルチック艦隊が最後に寄港したカムラン湾において、親日的だったベトナム人が補給などでサボタージュし、石炭に泥を混ぜたことが日本勝利の一因だったとも伝えられます。こうしたことも日本人として知っておくべきでしょう。(バルチック艦隊のカムラン湾寄港については、当時日英同盟を結んでいた英国が事前に裏でフランスに圧力をかけたり、妨害していたという説もあります。)