人間は長く生きていると、病気以外で、思いがけぬ事故や事件に巻き込まれて、危うく死にそうになった経験が一度や二度はあるのではないかと思います。
私の場合も、長い外交官生活で、そういう経験が再三ありましたが、その中で最も危険だったのは、今から半世紀以上も前、ベトナム戦争の最盛期に旧サイゴン(現ホーチミン市)の日本大使館で勤務していた時でした。
とくに1968年2月、ベトナム戦争のハイライトとも言うべき歴史的な「テト(旧正月)攻勢」の際に、偶々出張先の中部ベトナムの古都フエで、猛烈な市街戦に巻き込まれ、まさに一命を落としかけました。往時茫々ですが、あの時の極限的な体験だけはいまだに忘れられません。
実は、今月初めに亡くなった作家の石原慎太郎元東京都知事も、「もしベトナム戦争へ取材で行っていなければ政治に興味を持つこともなく、政治家になることもなかっただろう」と述懐していました。それほどベトナム戦争は異常な経験であり、私の人生にとっても大きな出来事であったことは確かです。
その時の状況は、昨年10月18日付けの本欄(米国初体験の思い出)でもちょっと触れましたが、次回もっと詳しくお話しすることにして、その前に、ウォーミングアップとして、過去の日越関係の歴史や両国の国民性の違いなどを簡単に振り返っておきたいと思います。
近年ベトナムとの人的交流が進み、観光旅行で訪越する日本人も、仕事や留学で来日するベトナム人も急増しています。私が住んでいる東京・世田谷でも、レストランやコンビニではベトナム人が大勢働いており、我々の日常生活に欠かせない存在になっています。
しかし、その割には日本人のベトナム理解はあまり深まっているようには見えません。今後両国の関係を一層円滑に促進するためにも、少々回り道になりますが、両国の交流の歴史をある程度理解しておく必要があると思います。
最初の訪越日本人は阿倍仲麻呂
日本とベトナムの関係は、古い時代については必ずしも史実がはっきりしませんが、最初に訪越した日本人は奈良時代の阿倍仲麻呂だろうと言われています。百人一首の「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」の歌で有名な彼は、奈良時代中期に遣唐使として中国に派遣されました。しかし、途中で船が漂流し、安南(現在のベトナム北部のゲアン省あたり)に上陸。後に唐王朝の官吏となり、安南節度使に任命(766年)されたとされています。
その後遣唐使制度の廃止により、日本人の海外渡航はストップしましたが、西欧の大航海時代、日本の豊臣・徳川時代になると、勘合貿易が盛んになり、日本人の東南アジアへの渡航が増加。例えば静岡出身の山田長政がシャム(現在のタイ)で活躍したのとほぼ同じ時期に、京都の豪商で徳川家康の御用商人であった茶屋四郎次郎は江戸時代初期にベトナムへ渡り、中部ベトナムのホイアン(ダナンの直ぐ南)を拠点に貿易商として成功し、巨万の富をなしたと言われます。
現在でも、ホイアンには、当時の日本人町の建物や、日本人が作った「日本橋」(元の名は「遠来橋」)が残っており、町全体が世界文化遺産に指定されていますので、ベトナム観光旅行のついでに是非見学されることをお勧めします。
しかし、折角盛り上がった日越貿易関係も、その後徳川幕府の鎖国令(1639年)で完全に途絶。茶屋四郎次郎の一族も、帰国できず、ベトナムの土となりました。現在彼らの墓がホイアン郊外にいくつか残っていますが、望郷の念もだしがたく、墓石はいずれも故郷の日本の方向を向いて建てられています。