江戸時代から続く戸山公園の歴史を紐解く
江戸時代、この一帯には徳川御三家のうち尾張家の下屋敷があり、回遊式の築山林泉庭園・戸山山荘として有数の大名庭園だったという。山手線内最高峰でありながら、わずか44.6Mほどの箱根山はこのころに池を発掘した際の残土を利用して作られた築山で、かつては玉円峰と呼ばれていたそう。
尾張家二代藩主・徳川光友亡き後、一時は荒廃の一途を辿ったものの、1970年に徳川家十一代将軍・家斉の来遊をきっかけに再興、家斉は「すべて天下の園地は、まさにこの荘を以て第一とすべし」と絶賛したとのこと。当時の繁栄ぶりがうかがえるエピソードである。
明治維新を機に明治政府に明け渡されると、軍用地として利用されるようになり、陸軍戸山学校をはじめとする関連施設が次々と設置され、1945年に終戦を迎えるまで約70年間にわたって軍の研究や教育の拠点とされていた。
近隣で育った筆者の夫いわく、子どものころはまだ敷地内に薬莢が埋まっていると言われていたため、薬莢探しと称しては土を掘り返して遊んで、たびたび管理人に注意を受けていたという。
当時から人骨が埋まっているという噂が地元住民の間ではまことしやかに語られていたようだが、1989年に陸軍軍医学校跡地に位置する国立感染症研究所(旧国立予防衛生研究所)を建設するにあたって掘削作業が行われた際、死後100年以内とみられる身元不明の人骨が大量に発見されたのだ。
戦時中、陸軍には731部隊(関東軍軍防疫給水部本部)と呼ばれる研究機関が存在したと言われており、この部隊を率いた石井四郎中将らの属した防疫研究室(日本陸軍防疫研究所)が同地に設置されていたため、人体実験の結果、隠蔽された人骨ではないかと疑われて現在に至る。
『軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会』によると、人骨発見当初、専門家や市民の声に応じる形で新宿区も真相究明を約束したものの、鑑定人の選考・打診に難航。1991年にようやく札幌学院大学教授・佐倉朔氏に鑑定を委託し、それから約半年後に一般公表された「佐倉鑑定」の要約は以下の通りだ。
1. 土中経過年数は約10年から100年以下
2. 個体数は100体以上(頭蓋骨だけで62体)
3. 性別は男性:女性=3:1、大部分が成人であるが、少なくとも一体の未成年を含む
4. モンゴロイド系の複数の人種が混在(一体だけモンゴロイドではないと思われるもの在り)
5. 複数の頭蓋骨にドリルによる穿孔、鋸断、破切などの人為的加工の痕跡(そのうちには脳外科手術の開頭術中耳炎の根治手術に類似するものも)
6. 切創、刺創、銃創の痕跡。また四肢骨の鋸断したものあり
7. 一部にフォルマリン等で固定されたもの、晒し骨の乾燥標本と思われるものもあった
(『軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会』より引用)
しかし、人骨が発見された国立感染症研究所は戸山公園の敷地外にあたり、実際に公園内で人骨が発見されたわけではない。発見された人骨は現在、同施設内にある納骨堂に納められている。