三笘、田中碧、板倉らとも一緒に

ーいつからプロを目指していたのですか?

三好:小学校に上がる時に、ちょうど2002年日韓ワールドカップがありました。6歳~7歳とかでそれを見て「プロになりたいな」「ワールドカップに出たいな」って思いましたね。当時それが僕の夢でした。

ーアカデミーでは田中碧選手や三笘薫選手と一緒だったんですよね?

三好:三笘は一緒にやっていました。三笘はなんなら僕より1年先に入ってました。(学年で)1個下は最初3人しかいなかったんです。三笘は小学校の時からずっとやってましたね。田中碧は僕と同じタイミングで入ったんですけど、学年的には2個下なんで一緒にやったりする時もあった、って感じですかね。

ー三笘選手や板倉選手たちとの仲はどうですか?アカデミー時代に喧嘩などは?

三好:三笘はないですね。1個下なんで、それこそ(僕と)喋る時も敬語ですし。小学校の時とかタメ口でしたけど、中学ぐらいで気づいたら敬語になってました。

板倉は同い年なんでずっと一緒にやってました。仲もいいですから今でもしょっちゅう連絡とります。僕がアントワープにいる時は結構家に遊びに行ってましたね。家も2時間とかでそんなに遠くなかったんで。だからみんながヨーロッパにいたり、A代表とかでもやってることは不思議な感じです。


三好康児(川崎フロンターレ所属時)写真:Getty Images

トップチームで実感したプロの壁

ー川崎でU-18に昇格したのがとても早かったですよね?

三好:中学3年生の時に、ユースで高校生と一緒にやらせてもらってました。兄貴がいたので年上の選手と一緒にやることが多かったんで、プロになるならできるだけ高いレベルでっていうのを常に思っていました。自分より上手い選手とできるのは常に楽しかったですし、プロになるっていう過程ではすごく大事だったと思います。

ーその後トップチームに昇格したものの、出場機会は限られていました。

三好:はい。J3(当時J3に参加していたJリーグのアンダー22選抜)があったんですけど、トップチームは途中から3~4試合(出場)とかでしたね。1年目は正直そんなにスタメンを取れたわけでもないですし、プロの壁というか厳しさっていうのはありました。やっぱり川崎は優勝争いチームでしたし、それこそA代表に入るような選手が多くいた中で戦うのは簡単ではなかったです。

ー川崎在籍時に学んだことはありますか?

三好:今でも技術的にもっと向上できるなというのは常に思っていますが、当時は風間(八宏)さんが監督をやっていて、中村憲剛さんはじめトップレベルの選手たちからポジションを奪って戦っていく中で、本当に(技術が)足りないなっていうのは常に学ばせてもらいました。ただ、自信をなくすことはなかったです。自分には自分なりの自信があったんで、そこの埋め合わせというか葛藤は常にしていました。

ーアドバイスを受けたことはありますか?

三好:色々ありますけど、メンタル的なところですかね。やっぱり試合に出れないとメンタルを維持するのも難しい。高校生までは試合に出られないことなんて1回もなかったのに、プロに上がって試合に出られないとコンディションもなかなか合わせづらい。

しかも「コンディションを合わせる」ということもそれまで意識してきてなかったので。常に試合をやってて勝手にコンディションが整うので。その難しさも改めて実感しました。常にプロとしての振る舞いというか「いろんな人が見ているんだぞ」というのは教えてもらいました。

ー腐ってしまいそうなこともありそうだったのですか?

三好:腐るっていうか反発するっていうか。「なんで使われねえんだ、俺」とか。腐るという表現になる可能性はありますけど、自分や板倉がそういう雰囲気でやっているとやっぱり先輩方は気づくじゃないですか。そうなるとメシ連れてってくれて励ましてくれたりとかはありましたよね。

三好康児(北海道コンサドーレ札幌所属時)写真:Getty Images