最良のパートナー、二人三脚による夢の実現と功績

ホンダを創業した二人は他に類を見ない最良のパートナーとして、技術の本田、経営の藤澤として戦後の復興期から浮き沈みも激しく混乱する昭和の時代を駆け抜けてホンダを創業から2輪では世界一、4輪でも世界的メーカーへと飛躍させたその功績は戦後に誕生した日本を代表する企業の経営者として、ソニーを創業した技術の井深大(故人、1908年 栃木県生まれ)と営業の盛田昭夫(故人、1921年 愛知県生まれ)などと並んで称されています。

ホンダにおける藤澤武夫の存在と功績はとても大きく、特にその中でも後にマスキー法をクリアしたCVCCエンジンの開発を成功へと結びつけた経営手腕は語り継がれています。
具体的には、当初より本田宗一郎と約束をしていた技術では口を出さないということを頑なに守りつつ、藤澤武夫が若手技術者の意をくみ取り本田宗一郎に対し「社長か技術者か?」の選択を迫り、マスキー法をクリアするエンジンの開発にあたって本田宗一郎が技術者としてこだわり推していた空冷エンジンの開発から若手の推す水冷エンジンの開発への転換を泣く泣く(藤澤武夫は後に本田宗一郎であれば空冷でもきっと実現したと回想)認めさせています。
そして、後進に道をゆずって素晴らしい形で経営を引き継ぐために創立25周年で二人揃って引退することをコーディネートしたことなども、ホンダにおいて絶対的カリスマであった本田宗一郎の存在に対して藤澤武夫以外には誰もできない役割をきちんと担っていて、如何にも藤澤武夫らしいとても大きな存在で功績であったと思います。

「本田宗一郎とともにホンダを創業した藤澤武夫の功績」【自動車業界の研究】
(画像=本田宗一郎と藤澤武夫(Honda)、『CARSMEET WEB』より引用)
「本田宗一郎とともにホンダを創業した藤澤武夫の功績」【自動車業界の研究】
(画像=CVCCエンジン(Honda)、『CARSMEET WEB』より引用)

2022年には、ソフトウェアやインフォテインメント(インフォメーション×エンターテインメント)も問われる現在の自動車ユーザーのニーズから、戦後に創業された日本を代表する企業であるソニーとホンダが組んで、次世代に向けた新規事業会社としてソニー・ホンダモビリティ株式会社を設立、“AFEELA”ブランドからプロトタイプも発表されています。

「本田宗一郎とともにホンダを創業した藤澤武夫の功績」【自動車業界の研究】
(画像=AFEELAプロトタイプ(ソニー・ホンダモビリティ)、『CARSMEET WEB』より引用)

藤澤 武夫の「米国自動車殿堂」入り

ヘンリー・フォードやゴッドリープ・ダイムラー、トーマス・エジソンといった歴史に登場する偉人が選ばれている米国自動車殿堂に、1991年に日本人として初めて入った本田宗一郎は、1988年に亡くなった藤澤武夫の仏前にそのことを報告したと伝わりますが、2023年に藤澤武夫もホンダからは二人目として米国自動車殿堂入りしています。
米国デトロイトで行われた式典ではホンダの倉石誠司会長(当時)と共に藤澤武夫のお孫さんの今井基晴さんも登壇しています。

藤澤武夫が本田宗一郎と築いたホンダは、米国において日本の自動車メーカーとして常に先頭を走り、営業会社や生産会社を設立して米国の自動車産業をその一角として牽引してきました。
1980年代の日米貿易摩擦時代の解決策のひとつとして、ホンダの需要があるところ(現地)で生産するというセオリーは世界の自動車メーカーにも大きい影響を与えたと考えられます。
つまり、貿易摩擦の解消以外においても現地で自動車の部品を調達して、現地で自動車を組み立てることはユーザーの住んでいる国にとっても雇用創出や各種税収といった面、メーカーにとっても輸送コストの低減や現地の従業員に伴う販売の拡大、為替影響の回避と様々な面でメリットがあるため、ブランドとして商品の品質が担保できれば非常に合理的で好ましいことです。

しかし、昨今の日本においては国内での自動車やその部品の生産が減ってしまい、今や9兆円ほど(2023年)もの貿易赤字の状態で、時代に即した考え方が日本企業としては必要であるのかもしれず、まさに藤澤武夫も提唱していた万物流転の法則でしょうか。

「本田宗一郎とともにホンダを創業した藤澤武夫の功績」【自動車業界の研究】
(画像=2023年米国自動車殿堂式典 左よりJonathon Husby 米国自動車殿堂会長、倉石誠司 ホンダ取締役会長、藤澤武夫のお孫さん 今井基晴さん、Sarah Cook 米国自動車殿堂プレジデント(Honda)、『CARSMEET WEB』より引用)