ホンダと言えば、その名の通り創業したのは本田宗一郎と思い浮かべる方も多いのではないかと思いますが、創業期から2輪車(オートバイ)世界一、米国のマスキー法(大気浄化法)を世界で初めてクリアしたCVCCエンジンの実現に至る頃までの25年近くにわたって、ホンダの経営を中心で担い舵取りをして、本田宗一郎と二人で現在のホンダの礎を築いたのが藤澤武夫です。
その存在は、ホンダはもちろんのこと自動車業界の拡大と発展にも大きな影響を与え、その名は昭和の日本を代表する経営者としても知られていますが、では、実際にどういった背景でどんなことをしたのか? やそれが後にどういった影響を与えたのか? などを中心に今回はコラムをお届けします。
出会いから強固なパートナーへ
ホンダ(本田技研工業株式会社)の元最高顧問で創業社長の本田宗一郎(故人、1906年 静岡県生まれ)と同じく元最高顧問で副社長として経営を担い、二人三脚でホンダを創業した藤澤武夫(故人、1910年 東京都生まれ)は、1949年8月に共通の知人である元中島飛行機株式会社(現 SUBARU)の竹島 弘(故人)を通して、本田宗一郎が42歳、藤澤武夫が38歳の時に知り合い、お互いが“自身は持っていない違った才能を相手が持っている”ことを理解し合い、たちまちに意気投合して合流しています。
恐らくは話しをしてみて、すぐに直感的に感じあえるものがあったのだろうと考えられますが、昭和を代表する稀代の人物とも言える二人には、それが即座に理解できる才能を持っていたと想像することができます。
技術と人心掌握や会社の顔といった側面を担う本田宗一郎と、経営と営業や経理といった側面を担う藤澤武夫というパートナーが、出会った瞬間から誕生していたと言っても過言ではないと思います。
人は誰もが自分に無いものに憧れたり、疎んだり、尊敬したりといった様々な感情をいだくものですが、二人がお互いの欠点を補いあってこそ素晴らしいことを実現できる! と思えたことが、二人三脚でホンダを世界的企業にまでわずかな年月で成長させた原動力で全ての始まりであったのだろうと思います。
創業期のホンダは、米国の金融引き締め施策による国内不況やライバルメーカーとの競争から苦境にあえいでいましたが、藤澤武夫が精力的に動いて持ち前の経営手腕を発揮、1950年には台湾へホンダA型を輸出して資金を稼ぎ、世界への第一歩として東京営業所と東京工場を開設しています。
時代背景が現在とは異なり高度経済成長期ではあるものの、凄まじい攻めの経営姿勢を感じずにはいられません。
本田宗一郎が世界一を目指すために必要とされる技術開発や生産設備といった投資に要するお金を藤澤武夫が準備して、ホンダのビジネスを成功させていくという役割と責任の明確化が当初から実現していたと想定されます。
ホンダをブランドとして確立させた卓越した施策の数々
藤澤武夫が成功させた初期の営業施策のひとつに、ダイレクトメールによる自前の販売ネットワークの構築があります。
具体的には、販売ネットワークの構築に向けメーカーの営業担当者が一店一店へ訪問して足で稼ぐのが当たり前であった時代に、国内に5万店以上あった自転車店へ、“お客さまがエンジンの着いた自転車を求めている”といった内容のカスタマーニーズをわかりやすく謳った巧妙な手紙と、当時は無名なホンダの信頼を得るために用意周到に準備していた“取引銀行への振り込みを促す”手紙も送ることによって、最終的には1万5000店以上にも及ぶ自前の販売ネットワークを極めて効率的に構築して、セールスへ結びつけています。
また、人気絶頂であった日劇のダンサーによるカブ号F型での銀座界隈のパレードも行って、誰でも手軽に乗れることを訴求するプロモーションによって極めて効果的にマーケティングを成功させています。
さらに、ホンダ創業からの課題であった代金の未回収問題を解決するために約束手形による月賦販売の仕組みも実現させています。
そして、これらの成功にはもちろん藤澤武夫のカスタマーイン視点での意見にも耳を傾けて、製品を開発した本田宗一郎の才能と力量がありました。
社長である本田宗一郎を、天才カリスマ技術者の社長として表に効果的に出してホンダをブランディングして、後の時代には伝説と称される存在にまでにしたことも含め、藤澤武夫は現代においてもブランド形成に必須とも言える“ブランディング×マーケティング×セールス”の才能も卓越していて、的確な分析と理論に基づいて実に合理的にこれらを遂行したと言えます。
現代では、こういった取り組みが多彩な理論や経験則に基づいて実践されていますが、その先駆けとも言える施策を1950年代に仕掛けていた藤澤武夫は、本田宗一郎に引けを取らない天才カリスマ営業とも言える存在です。