モテモテで「この人を口説こう」と決めたら落とせなかった女性はいなかった男が、ほんとはぞっこんに参ってしまった女性に対して「君がほかのかわいい女の子より特別素敵ってわけでもないし、季節外れのアスパラガスより珍しいわけでもないけどね」とかごちゃごちゃつまらない意地を張りながら、結局は「お願いだから一緒に暮らしてくれよ」と言っているという曲です。

つまり、婉曲と言うよりやや斜に構えたプロポーズの歌と言えるでしょう。ところが、彼女目線のヴァース2連目を聴くと、状況は一変します。

「ちょっとかわいい子を見かければ、見境なく手を出す人となんか、一緒になれるもんですか。本気だと言うなら、ほかの人には目もくれないところを見せてちょうだい」とピッシャリ突っぱねているのです。

出会いがしらにいきなり張り手をかますようなスザンナ・マッコークル版には、おそらく「1連目のヴァースなら何度か聴いたことがある人も、こっちのヴァースはご存じないでしょ。でも、ここまで聴かなきゃ意味がない歌なのよ」という意図がこめられていたのでしょう。

そこには、作詞作曲双方を手がけたクリエイターとしてはアーヴィン・バーリン以外に匹敵する人がいないほど偉大なポピュラーソング・ライターだったコール・ポーターの思いを、まだるっこしいことには付き合えないほどせわしない日常生活を送っている現代人になんとか届けたいという願いがこめられていたのだと感じます。

コール・ポーターは1891年生まれで1964年に亡くなっています。欧米では同性愛に対する偏見や迫害がすさまじかった時代に、自分は女性とは友だちになることはできても愛し合うことはできない人間だという事実をまったく隠さずに生き抜いた人でした。

同性愛のカップルについて、いわゆるノンケの人たちは「どっちが夫で、どっちが妻なの?」という疑問を抱くようですが、これはまったく的外れな疑問らしいです。

お互いに夫でもあり、妻でもあるから愛憎、喜怒哀楽の感情の起伏はストレートカップルの2倍どころか自乗と言ってもいいほど振幅が大きくなるということで、あの甘いメロディにこれだけの激情を乗せる作詞作曲の妙があり得たのだと思います。

つまり1連目のヴァースの彼も、2連目のヴァースの彼女も、コール・ポーター自身なのです。

一方、大胆にも2連目のヴァースから歌い出したスザンナ・マッコークルは1946年生まれで、2001年にニューヨークの高層マンションの16階にあった自宅から身を投げて亡くなっています。

UCバークレーの学生だった頃、大学そのものより当時盛んだった学生運動の中の人間関係に行き詰まりを感じてドロップアウトし、語学力を活かしてパリでEUの同時通訳をしていました。

その頃ビリー・ホリデイの<I Gotta Right to Sing the Blues(私にはブルースを歌う権利がある)>を聴いて、ジャズヴォーカルを志したそうです。

もうジャズヴォーカルは少数の愛好家にしか評価されない時代に、生活のためにキャバレーシンガーをしながら、あくまでもジャズヴォーカリストとして生き抜こうとした人で、コンボをバックにCDを吹きこむときには、そうとう選曲にもメンバーにもこだわっていました。

キャバレーやホテルの小さなステージで歌っているときに客が大声で会話をしたり、ウエイターが食事を運ぶ音を出したりすると不機嫌になる、なかなかつらい人生を送っていたようです。

自ら死を選んだ理由についても、かなり若い頃に発症していた双極性障害(日本ではまだ躁鬱症という病名の方が通りがいいですが)との長い闘いにとうとう負けてしまったのだと追悼記事は伝えています。

楽しいこと、嬉しいことばかりではなく、むしろつらいこと、悲しいことのほうが多かったふたりの人間が、時代を超えて創作者と解釈者として出遭う、その瞬間に聴き慣れていたはずの歌が、まったく新しい貌を見せてくれる。歌を聴くことの喜びはそんなところにあるのではないでしょうか。

生成AIが作詞作曲もできるようになった?!

こんなことをつらつら考えてしまったきっかけは、最近の生成アプリは日進月歩で変化していて、ついに「だいたいこんな感じの歌をつくってくれ」と指示すると、歌詞も書いてそれに合わせたメロディもわずか数秒あるいは数十秒のうちにつくってくれるアプリまで登場したというXの投稿を読んだからでした。

当然、流麗なメロディに絶望感を滲ませるといった芸当は無理に決まっていると思いながらも、一応どんなものか、そのSunoというアプリが作詞作曲した「楽しくドライブしているときに聴くための曲」なるものを聴いてみました。

歌詞といい、曲といい「これぞ紋切り型」と言いたくなるほど、ドライブをしている車のCMソングの最大公約数のような何ひとつ新鮮味のない曲で、笑ってしまいました。たしかに紋切り型としてはこれ以上の完成度はないでしょう。

生成AIも使うクリエイターのセンス次第で、ずいぶん趣味のいいこと、気の利いたことができるようになっています。

たとえば、次にご覧いただく4枚組写真は微妙に折り方をずらしながら写真に撮っていってつなげた折り紙アニメのように見えて、じつはとうてい1枚の紙ではできるはずのないかたちを不自然さもなく織り交ぜています。

これはもう、折り紙芸術の新しい分野を開拓したと言えるのではないでしょうか。

また、もっとはるかに実用性の高い分野でも、たしかに生成AIは長足の進歩を遂げています。私はイーロン・マスクという起業家についてはどちらかと言えば否定的な評価をしがちですが、彼が推進しているニューラルリンクプロジェクトには脱帽せざるを得ません。

全身麻痺で指1本動かすことのできない人が、ニューラルリンクを装着して頭の中でチェスのコマをこう動かそうと考えると、スクリーン上のコマが実際にそのとおりに動くことが実証されたのです。

世界中の全身麻痺で身動きできない人たちにとって、人生の可能性を飛躍的に拡大することになる大きなイノベーションであることは間違いないでしょう。

しかし限界も見落としてはいけない

とは言うものの、実用性という観点から見れば大事なのは、「どんなことが(たまには)できるか」ではなく、「どんなことなら安心して任せられるか」です。その点では、じつは華々しくお披露目された2022年頃からほとんど変化は見られません。

現状での対策は以下のとおりで、結局しっかりした介添人が付いているかどうかで信頼性は決まってしまうようです。