この連載「法“痴”国家ニッポン」ではこれまで、日々の事件やニュースを題材として、一般にあまり知られていない警察・検察行政の裏側や、法の運用の実態について解説してきました。そして、その中で折に触れて、“法の埒外”の問題についても論じてきました。世の中には、法でカバーできない、裁くのが難しい領域が確かに存在する。しかしそれでも、社会システムや慣習、世論など、さまざまな要素がからみ合いながらその穴を埋める機能を果たし、結果として社会をそれなりにうまく回してきた。日本社会のそういう側面は、連載に通底する大きなテーマのひとつでした。
特定の人物が、そういう“法の埒外”に置かれているケースも少なからずあります。それは、いわゆるアウトローという意味ではなく、権力を手にしていることによって法の裁きから逃れ得る人間がいる、ということです。しかし日本では、そうした人物が、引退や死去などによって権力を手放したとたん、それまで法のもとで見逃されてきた悪行をなんらかの形で追及されて失墜する、というケースが非常によく見受けられます。海外では、多くの人々の恨みを買った“巨悪”が栄え続けるパターンは珍しくありませんが、日本ではまず逃げ切れない。最終回である今回は、それを象徴するような近年の3つの事件を採り上げ、わが国の法と社会の関係について、改めて考察したいと思います。
安倍晋三元首相のケース
旧統一教会との“深い関係”が被害者に与えた深い恨み まず考えたいのが、安倍晋三元首相のケースです。周知の通り安倍氏は、2022年7月、奈良県奈良市において、第26回参議院議員通常選挙の応援演説中に銃撃され、非業の死を遂げました。2017年の加計学園問題や2018年の森友学園問題、2019年の桜を見る会問題など、普通なら政治生命を絶たれてもおかしくないような数々の疑惑をかけられながら、そのことごとくを乗り切った安倍氏。そして歴代最長となる7年8カ月もの長期政権を築いたあの安倍氏が、なぜあのようにあっけなく命を落とすことになってしまったのでしょうか?
もちろん、銃撃事件単体で見れば、警備体制の不備など、要因はいろいろ考えられるでしょう。ただ、根本的な原因を挙げるなら、あまりに多くの人々の恨みを買ったまま権力の座から降りたから。そのひと言に尽きると思います。
その前提として理解しなければならないのは、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)が信者やその家族、周囲の人たちに対して行ってきたことは、いまだ大々的な法の裁きを受けるまでには至っていないものの、確実に“凶悪犯罪”に類するものだということ。そして安倍氏が、旧統一教会と大昔から深い関係にあったことは今や、先日亡くなった細田博之・前衆議院議長ら自民党幹部でさえも公式に認めるところであり、本人にその自覚があろうとなかろうと、教団の広告塔として“凶悪犯罪”の片棒を担いできたということです。
教団の所業によって、家庭や人生を破壊され、自殺にまで追い込まれた人は、数え切れないほど存在します。そうした人たちからすれば、安倍氏は、“凶悪犯罪”に加担して自分たちを苦しめた、恨んでも恨みきれない“大罪人”でしょう。加計学園問題や森友学園問題においても、安倍氏に恨みを抱いた人はいたでしょうが、旧統一教会の被害者の恨みは、質・量の両面においてその比ではないはずです。
もちろん、だからといって、銃撃事件で起訴された山上徹也被告を擁護するのは完全に誤りです。どんな事情があろうと殺人は殺人であり、許されざる行為です。さらにいえば、たとえ誰かを殺したいほど憎くんでいたとしても、実際に殺してしまう人はほぼゼロです。
しかしながら問題は、“完全にゼロではない”というところなのです。ごく少数ながら、それを本気で実行しようと考えてしまう人はいる。そのため、深い恨みを持つ人が多ければ多いほど、山上被告のような非常手段に訴える人の出てくる可能性は高まっていく。そして、恨みの対象が権力の座から降りて狙いやすくなったとき、ついに決行する人が出てきてしまう。仮に警備体制が万全だったとしても、それを阻止するのは非常に困難なのです。
安倍氏の死去にあたり、一部のメディアや論者から「自業自得だ」「天罰が下った」というような意見が上がり、批判を浴びました。そうしたものいいの是非はおくとして、結果的に安倍氏がああいう形で殺害された背景には、そういう確率論的な“恨みの構造”があったのは事実であると理解すべきだと思います。

