他方、非常に重要な制度が2つあり、それは「分業」と「社会的協力」です。分業はアダム・スミスによって最もよく説明されました。

11人では生産できるピンは20個だけですが、その作業を15人で分担すれば、1人あたり5,000個のピンを生産できます。つまり、75,000個(5000個×15人)のピンを生産できるようになります。

しかし、75,000個のピンの需要がない場合、それほど分業は行われないということが問題になります。(※注:つまり、国内需要が十分に大きくなければ、分業が不十分になってしまうということ。だから貿易が必要になる)。

そして、これが社会的結合の考えと組み合わさることで、最終的に社会主義的考えを完全に破壊することになります。

ひとつは、「私は彼を憎んでいるかもしれないが、彼に私の製品を買ってもらう必要がある。だから、良いものを提供するしかない」

だからこそ、バスティア(※)が言ったように、「貿易が入ってくるところには、銃弾は入ってこない」のです。自由貿易を促進することは、平和を促進することなのです。

※フレデリック・バスティア(1801〜1850) フランスの経済学者。自由主義者。 代表作は『見えるものと見えないもの』『法』『経済学の詭弁』

フレデリック・バスティア

そして同時に、社会的協力のプロセスとしての市場は、社会主義に対するとてつもない爆弾でもあります。交換が自由であるということは、交換に関わる2者がともに利益を得るということだからです。したがって、搾取理論の余地はありません。剰余価値の余地もありません。マルクス主義と社会主義の余地もありません。

同時に、市場の論理では、成功した起業家は社会の恩人であることに注意することが重要です。なぜなら、自由市場の資本主義では、より良い品質またはより良い価格の商品で他者に奉仕することによってのみ成功することが可能だからです。

もしその起業家がうまくいっていないなら、同じ商品をより良い価格で提供できる別の起業家が現れるかもしれないし、同じ価格でより良い品質の商品を提供できる別の起業家が現れるかもしれません。そうすれば、非効率な企業は倒産し、福祉は向上するでしょう。

したがって、起業家は社会の恩人なのです。なぜなら、起業家は、より良い品質の商品をより良い価格で提供し、同時に雇用を創出し、社会全体に進歩をもたらすからです。だから、繁栄の礎となる起業家たちを受け入れるべきなのです。

この序文を踏まえて、新古典派のジレンマがどこにあるのかを直視する価値があります。

経済成長理論とその実証的証拠の中で、これは「ホッケースティック」と呼ばれています。歴史を見ると、西暦以降、0年から1800年までの一人当たりGDPはほぼ一定でした。しかし、1800年から現在までに一人当たりGDPは、15倍以上に増加しました。また、同じ期間に 1800年の人口は8億人でしたが、現在では10倍になっています。つまり、一人当たりの生産性が向上し、さらにGDPは約150倍となり、人類史上最高の時を迎えているのです。国家の存在にもかかわらず、です。

そして、このような著しい経済成長の同じ時期に、極度の貧困は人口の95%から5%に減少しました。しかし、このような収穫逓増の法則は、集中構造の存在、すなわち独占の存在を意味します。そこで疑問が生じます。

これほど多くの福祉をもたらし、貧困を削減したのであれば、なぜ新古典派理論は独占を悪だと言うのでしょうか?

実際、無政府資本主義の発明者であるマレー・ロスバード(※)が言うように、問題は、新古典派の分析が間違っていることなのです。

例えば、携帯電話を製造するために10社が競争していたとして、そのうちの1社がより良い品質の携帯電話をより良い価格で製造する技術を発見したとします。当然、他の9社は倒産することになります。 しかし、より良い携帯電話をより良い価格で手に入れることに文句を言う人はいるでしょうか?

そういうわけで、新古典派理論は捨ててください。

※マレー・ロスバード(1926〜1995) オーストリア学派の経済学者。「無政府資本主義」の理論体系を提唱。 アメリカ合衆国のリバタリアニズム運動の中心的重要人物

マレー・ロスバード

それでは、新古典派理論の誤りはどこにあるのでしょうか? 最も単純なバージョンでは、独占価格は競争価格より高く、生産量は競争のある場合より少ないからと言われます。

しかし、この分析にはいくつかの問題があり、間違っています。第一に、これは部分均衡分析にすぎないため、単一市場の均衡しか考慮せず、経済の他の部分を考慮していません。言い換えれば、私はハビエル・ミレイに対して独占権を持っていますが、あなた方はそれぞれ自分自身に対して独占権があります。そしてこれは何の問題もありません。幸いなことに、私たちはみんな違っています。神に感謝いたします。さらに言えば、私たちは社会主義の灰色の画一性を好まないからこそ、その違いを尊重するのです。

しかし、新古典派理論は、市場の他の部分を考慮しない部分均衡分析であるために間違っているだけではありません。将来の影響、つまりこれらの市場構造が将来に与える影響を考慮していないため、非常に粗雑なのです。

実際、これはアメリカの経済学者であり思想家であったヘンリー・ハズリットの『La economía en una lección(世界一シンプルな経済学)』というすばらしい本を思い出させます。その本には次のように書かれていました。

「良い経済学者と悪い経済学者の違いは、悪い経済学者はある期間の市場しか見ていないのに対し、良い経済学者はすべての市場を見ており、現在だけでなく将来も見ている」という言葉です。

従って、独占とその規制に関する従来の分析は、悪い経済分析の一部であることを示すことになります。さらに、利益が経済成長を生み出す要素であることを考えれば、利益を台無しにすることは、成長にマイナスの影響を与えることを意味します。

問題は、この分析に対する本当の答え、あるいはこの分析の本当の根拠は何なのかということです。実は、その答えは経済分析にあるのではなく、一般均衡が用いる数学的構造にあります。基本的には、パレート最適の分析と生産集合における非凸性の問題に関係しています。パレート最適とは、既存の均衡がパレート最適であるためには、消費者と生産者の両方が最大化しなければならない、というものです。

そして問題は、収穫逓増の場合、凸型の生産関数になり、その関数の問題は、最大値を見つけることができないということです。当然のことながら、これも数学的な誤りです。

というのも、収穫逓増の場合、経済内のすべてのリソースを使用した場合に最大値を見つけることができますが、その場合、1つの会社だけになるという別の問題が発生することになります。

しかし、経験的に正しいと思われることは、別の概念上の間違いもあります。なぜなら、それは基本的に企業の本質を無視することを意味し、とりわけ以下の事実を無視しているからです。

企業は人間によって運営されており、より多く生産するためにより多く働こうとすれば、当然、自由時間の機会費用は驚異的に増大します。1日24時間、週7日働かなければならないのであれば、年俸1,200万ドルの仕事に何の意味があるのでしょうか。自らの人間性と衝突することになります。しかし、新古典派の分析では、企業を人間に依存するのではなく、機械であるかのように扱うのです。

最後に、独占企業に対するもうひとつの批判は、独占企業は経済における生産量を少なくするというものです。しかし、これも誤りです。独占企業が稼いだお金は、明らかに消費に使われ、経済の他の場所で生産と雇用を生み出すことができるからです。

では、ケインジアンをさらに苛立たせるようなケースをいくつか考えてみましょう。大きな利益を貯蓄に回したらどうなるでしょうか?

その貯蓄は他の企業への投資に変わり、他の部門で生産と雇用の増加を生み出します。何も失われることはありません。あるいは、この独占企業が非常に野心的で、すべてを自分の会社に投資したいと考えたとしましょう。そのため、彼の貯蓄はすべて投資に回されます。しかし、その投資は、より多くの資本、より多くの生産性、より高い賃金、そして同時により多くの財の生産を意味します。したがって価格は下がり、賃金はより高く物価はより低くなり、したがってすべての幸福が向上するのです。

さらに、独占者が消費すれば幸福が生まれ、金融システムに貯蓄すれば幸福が生まれ、貯蓄し自分に投資すれば幸福が生まれるのだから、独占者に対するこれ以上の攻撃は見られなくなります。

では、「呪われた企業家」がそのお金を埋めると決めたらどうなるか考えてみましょう。すると、誰もそのお金にアクセスできなくなります。

何が起こるでしょうか?

経済におけるお金の量は減り、物価は下がり、国民全体が恩恵を受けます。しかも、デフレの恩恵を受けるのは最も所得の低い人々です。したがって、介入を正当化するような分析はすべて、より多くの国家と、より多くの国民への害悪を生み出すだけです。

このプレゼンテーションの最後に、社会主義者の介入がいかに経済を破壊するかを示しましょう。