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未来の物語

ラワースは、20世紀の物語と対照させることで未来の物語を構想する。その一環として、主な制度や登場人物の未来の役割を想定している。

私達もこの手法を使う。プレーヤーとしての中小企業・大企業・協同組合については前回で述べているので、ここでは主要な制度について簡単に触れることにしよう。

(前回:衰弱する資本主義⑬:未来へ(1))

国家

21世紀の経済の物語では、国家の役割は再検討しなくてはいけない。例えば、戯曲の映画版に喩えてみるなら、映画版での国家は、家計とコモンズと市場を支える経済のパートナー役として、アカデミー助演賞を全力で狙うべきだ。(ラワース、p.123)

ラワースのいう国家の役割とは、

公共財の提供。教育・医療、ハードとしての道路・交通。 家計の支援。育児休暇、高齢者介護。 コモンズの活性化。コモンズを守る法律・制度の制定。 市場の力を利用して環境保護、労働者の保護など。

助演賞とは、ラワース流の巧みな表現だが、次のようにも言っている。市場やコモンズが手を出せない領域では、「国家も舞台の中央に歩み出ることがある。」(同上書、p.124)

助演賞はイノベーションについても期待されている。基幹技術は民間からが望ましいが、それを普及する技術、たとえばスマートフォンをスマートにするイノベーション(GPSとかマイクロチップなど)はアメリカ政府の出資による研究から生まれた。

しかし、こういう方向で話を進めると、国家は徐々に大きくなっていく。そこで、ラワースは歯止めを掛ける。それが民主主義だという。この主張には賛成したいのだが、日本の現状を考えるとやや悲観的になる。

なお、助演賞を期待するのは、国内的側面だ。対外的には、主に政治的な国家になるが、外交の主演は国家であり続ける。

市場

先にも述べたが、人類は市場・マーケット以上に優れた調整機構をまだ知らない。だから市場は機能し続ける。株式市場と金融市場は資本主義の二大市場だが、これらは修正・修復の上、機能を整理して、つまり国家の介入を排除し、投機を取引の潤滑油の程度に抑制して、維持されることになる。

「市場が効率性に並外れて優れていることはまちがいなく、市場抜きで経済を運営しようとしたら、供給不足と長蛇の列を招くのがおちだ。」(ラワース、前掲書、p.118)。

こういっても、私達もそうだが、ラワースは市場万能を主張しているのではない。市場では取り扱えないものが多い。私達が積極的に残すと主張している株式市場や金融市場は、物品のひとつである貨幣の市場である。限定品の市場でさえ、それが機能するためには、法律、規制、慣習が必要である。それらを人々が知っておくということは、学習するということであり、それを理解するだけの教育を受けているということである。ラワースのいうように自由な市場とは幻想であり、ポランニーのいうように市場も社会の中にうまくはまっているのである。

実のところ、労働市場でも商品市場でも、自由市場というものは決して存在しなかった。(K.ポランニー、『大転換』野口健彦、栖原学訳、東洋経済新聞社、2009年)(引用はスティグリッツの序文から)

ポランニーの頭の中では、市場と国家はセットであった。課題は、やや遠い将来の課題だが、生産手段の私的所有が止揚されたとき、国家と市場の役割がどう変化するかである。