ザ・ラインは全長170キロ、幅200メートル、高さ500メートルの居住用構造物を作るという構想であり、その中の住人は学校や病院、買い物などの全てのニーズに対し自宅からわずか5分でアクセスできると謳っている。
全長170キロというのは日本で言えば東京駅を出発して静岡駅を超えた少し先の距離となる。また高さ500メートルの建物というのは、高さ634メートルの東京スカイツリーより少し低いものの、最上階の展望台(450メートル)よりもさらに高く、また幅200メートルといえば、国会議事堂の幅とほぼ同じくらいだ。ダボス会議のセッション動画を見れば一目瞭然だが、ザ・ライン(線)とはその名の通り、巨大な薄い壁のような構造物が170キロにわたって砂漠の中を一直線に貫く都市とされる。まさに現代版「万里の長城」だ。
こんな巨大人工構造物に対するハートランド研究所(The Heartland Institute)の研究員の指摘は鋭い。
ザ・ラインのような計画が正当化されるのは、気候変動に伴いエネルギーを効率的に使わないといけないという考えを起点にしたものだ。
ザ・ラインでは徒歩5分で全てのニーズにアクセスできる、とのことだが、これらの都市の計画者は個々人のニーズをどのように把握するのだろうか。自由な選択肢を与えてもらえず、何を買うのか、強制されるのではないか。さらに、小規模なスペースに多くの人を居住させようとするのは、人々をより監視しやすくするためではないか。
気候変動については、「二酸化炭素などの温室効果ガスが排出されて引き起こされるものであり、その対策は急務である」ことが喧しく言われるようになって久しい。一方で、このような言説は政治的な色合いを帯びており科学的には正しいとは言えない、という見方も多くなされている(この点については機会があれば別の論考で取り上げたい)。
そもそも、依然として議論の余地が多く残されているそんな気候変動対策を絶対正義と決めつけ、それを盾に人類の社会生活のあり方を大きく変えようとするという発想自体が極めて傲慢だと言わざるを得ない。
スマートシティという名の「強制収容所」サウジアラビアに建設中のザ・ラインには、なんと900万人もの人々が居住することを想定しているらしいが、想像するに高さ500メートルの空間は上下に何百階層にも区切られ、幅200メートルの構造物もまた東西南北に何万、あるいは何十万という区画に区切られ、人々はその中で「誰か」に指定された空間のみで生活することになるのだろう。
そんな一直線の構造物の中では、上下左右の両隣を訪れたところで無機質な風景や構造はそれほど変わらないだろう。そんなところに押し込められた住人たちは、そのうち他の区画に訪れることに興味を失うのではないか。最上階や窓際の生活居住空間以外は、日光さえ当たらないかもしれない。まさに「人間蚕棚」である。
この「スマート」な構想は、徒歩5分で「全てのニーズ」なるものにアクセスできるから便利さと、根拠曖昧な気候変動対策を謳っているわけだが、昨今のコンビニ文化ではないが、そもそもなんでもすぐに手に入ることが人間にとって至上の価値なのだろうか、という根本的な問いかけはまったく感じられない。息をして生存するために必要な最低限のニーズはあるのかも知れないが、人間が人間であるために必要な自由や尊厳、さらには何千年もの歴史の中で私たちが育んできた文化という発想はまったくなさそうなのである。
こんな、人間を家畜同然に扱う発想が根底にあるとしか思えないスマートシティが目指す「スマートさ」とは、一体誰にとってのものなのだろうか。できるだけ人々を効率的に管理し、無駄なものは一切住民に与えないという、ダボス会議に参加できるような大富豪やエリート権力者らにとっての「スマートさ」を意味するのではないだろうか。
世界経済フォーラムが謳う「グレート・リセット」の本質とは、まさに「人類文明の壮大(グレート)なる仕切り直し(リセット)」を通じた人類の頭数管理ではないか。人々の居住空間がスマートシティに徐々に取ってかわることになり、やがて大半の人類の居住空間がスマートシティに限定されるような事態になるようなことになれば、スマートシティ構想は実は体のいい「強制収容所」への人類の強制移住なのではないかと危惧せざるを得ないだろう。