ドミノ理論の亡霊
「勝利に備えること」の政策提言は、改訂版「ドミノ理論」に依拠しています。「ドミノ理論」とは、ある一国が共産化すると隣国が次々に共産化すると警告する、冷戦期にワシントンの政策立案者に広く共有されていた学説です。この理論が導く政策処方にしたがい、アメリカのジョンソン政権は、南ヴェトナムの共産化を防ぐために軍事介入して、共産主義国家であるソ連や中国の手先と見なした北ヴェトナムと激しく戦いました。
しかしながら、アメリカは物量で北ヴェトナムを圧倒していたにもかかわらず敗退しました。同時に、アメリカが懸念していた、共産主義の「赤い波」が東南アジアを席巻することも起こりませんでした。ドミノ理論は間違っていたのです。その重い代償は、300万人を超えるヴェトナム人と約6万の若いアメリカ人の尊い命の犠牲でした。
ヴェトナムの悲劇から約半世紀を経た今、ドミノ理論は復活しようです。「勝利に備えること」は、ロシアがウクライナで勝利を収めることを許せば、今度はポーランドやバルト三国などの他のヨーロッパの国家を次々と襲い、最終的には国際秩序を脅かすことになると示唆しています。
それを端的に表しているのが、報告書の次の一文です。すなわち、「もしロシアが勝利を収めれば、NATO同盟国も含めて、この地域の他の国々が次(の餌食)になり得るだろう」という、我々に恐怖心を与えるような予言です。
ここから導かれる結論は1つです。すなわち、ロシアがヨーロッパを支配する悪夢のような事態になるのを防ぐには、ウクライナでロシアを完全に敗北させる以外に道はないということです。くわえて、報告書の著者たちは、国際平和と安全にとって死活的に重要な領土保全原則の「命運」は、ロシアを敗北させることにかかっているとも力説しています。
こうした主張は、ワシントンの外交エリートであるリベラル・ホーク(タカ派)の「ブロブ」や対ロ強硬派のヨーロッパ指導者によく見られます。
ロシアがウクライナに侵攻する直前に、オバマ政権の元高官だったエイヴリン・ファーカス氏は、「アメリカの指導者は…必要であれば戦争に備えるべきである。もしロシアが再び勝つようなことがあれば、我々はウクライナだけでなく、国境を越えた世界秩序の将来についての危機から抜け出せなくなるだろう」と主張していました。
フィンランドのサンナ・マリン首相も1月のスイスでのダボス会議で「もしロシアが戦争に勝ってしまったら、何十年とその侵略の振る舞いを見なければならなくなるし、他の国にも『侵略はして良い』というメッセージを与えてしまう、ウクライナが勝つ以外の選択肢はない」と決意と不安をにじませる発言をしました。
侵略の連鎖という妄想このような政策提言は、はたして妥当なのでしょうか。私は、そうは思いません。現状打破に挑戦する国家が、ドミノ倒しのように次々と隣国を制圧することなど、ほとんどあり得ないからです。
政治学者のスティーヴン・ウォルト氏(ハーバード大学)による「脅威均衡理論」が明らかにするように、現状打破国の冒険的拡張行動は他国に脅威を与えます。そして、脅威にさらされた諸国家は、その源泉である挑戦国に必死で抵抗するのが通例なのです。
この脅威均衡理論が正しければ、ウクライナや西側諸国はロシアによる侵略の連鎖と国際秩序の崩壊といった妄想にとらわれなくてもよいということです。万が一、ロシアがウクライナを超えて他のヨーロッパ諸国の生存を脅かそうとした場合、NATO諸国は今より固く結束して、より強力な対抗措置をとる可能性が極めて高いのです。その結果、クレムリンの野望は打ち砕かれるでしょう。
クラウゼヴィッツは防御が攻撃より強力であると説いています。これは今でもそうです。戦略理論家のスティーヴン・ビドル氏(コロンビア大学)は、ウクライナ戦争を分析して、「攻撃側の突破は適切な条件下ではまだ可能だが、十分な補給と作戦予備を背景に、準備された縦深防御に対して、これを達成するのは非常に困難である」と断言しています。
ウクライナ軍もロシア軍の相手の防御を崩す過程において、激しい戦闘と相当な犠牲を覚悟しなければなりません。ましてやウクライナを制圧できないロシアが、優勢なNATOの防御を通常戦力で崩壊させるのは、ほとんど不可能でしょう。