1986年まで外相だが、外交の主導権は中曽根首相がとって、レーガン政権と持ちつ持たれつだった旧統一教会も中曽根氏の方を向いていたし、清和会会長は1986年まで福田赳夫だったので、支援団体との関係を握っていたのは福田氏である。

しかも、安倍事務所内でも支援団体などとのややこしい話はベテラン秘書の仕事で自分はあまり関与していない。

さらに、1988年にはリクルート事件発覚で晋太郎は幹事長を辞職せざるを得なくなり、さらに、癌の宣告をされたので、人にもほとんど相談できないまま、父親の死んだ場合に備えなくてはならなかった。

そんなわけで、1991年に文鮮明が金丸信氏の手引きで来日し、中曽根元首相と会談するとか、1992年に合同結婚式や霊感商法が問題になっ社会問題になった時期は、父を看取り葬儀を済ませ次期選挙に向けて山口県に帰ってどぶ板していた時期で、その時期に旧統一教会を解散させるべきだったとか自分に言われても困るのである。

代議士になって永田町に登場したときは、自民党は野党だし、与党になっても清和会の一年生にすぎなかった。当時は、オウム真理教の事件があったし、野党を支持していた創価学会を叩くのに忙しいころで、旧統一教会のことは話題になっていなかった。

しかも、母親の洋子(岸信介の娘の安倍洋子氏)は、父親の信介や夫の晋太郎の周囲のややダーティーな関係とかそれに関わっている人を非常に嫌っていて、自分がそういう人たちと付き合うことを嫌ってしつこく注意するように言い聞かせられた。