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宝探しのような発見の多い意匠
邸宅を作り上げた3人

宝探しのような発見の多い意匠

【埼玉県】故郷に錦を飾った遠山邸の美学
(画像=<西棟玄関 那智黒玉石に鞍馬石の沓脱石 ©Kanmuri Yuki>、『たびこふれ』より引用)

数寄屋造りの西棟は、上述したように、遠山元一が母美以の住居として作った棟です。比較的小ぶりな部屋でまとまっているように感じますが、よく見れば、多様な木材を活用し、欄間や天井、引手も変化に富む凝りようです。那智黒玉石を敷き詰めた品の良い西棟玄関もぜひご覧ください。

【埼玉県】故郷に錦を飾った遠山邸の美学
(画像=<土蔵の入り口に見える遠山家の家紋 ©Kanmuri Yuki>、『たびこふれ』より引用)

また、意匠の発見の一環として、ぜひ探してみてほしいのが遠山家の家紋「丸に二つ引き」です。皆さんのご想像通り、この家紋は室内外のさまざまな場所に意匠として用いられています。鬼瓦や門、襖絵、欄間、照明器具、仏壇などに、ぜひ注目してみてください。

邸宅を作り上げた3人

この邸宅の建設には2年7か月かかりました。設計は室岡惣七、大工棟梁は中村清次郎、総監督は元一の弟である遠山芳雄が務めました。同館によるのちの調査を読んでも、遠山家住宅はこの3人が集まることで形になり得たものだとわかります。

【埼玉県】故郷に錦を飾った遠山邸の美学
(画像=<西棟12畳間(手前)の欄間 桐材に踊り桐の透かし彫り ©Kanmuri Yuki>、『たびこふれ』より引用)

中村清次郎は、年若いころから建築業を志し、宮内庁技師であった伊藤藤一に師事します。釘を使わない高度な組木を意匠的に用いる作風を特徴とし、多くの高級住宅を手掛けたと思われますが、残念なことにそのほとんどは関東大震災や戦火で失われました。(『遠山記念館だより』第61号)

遠山邸のこだわりの建材は、主に中村棟梁と遠山芳雄が、東京木場はもとより、名古屋や大阪の銘木商まで回って調達したと言います。(『遠山記念館だより』第55号)遠山芳雄は美的センスに優れていたと見え、後に遠山元一もこの建築こそ芳雄の残した芸術品だという旨の一文を残しています。(『遠山記念館だより』第55号)

【埼玉県】故郷に錦を飾った遠山邸の美学
(画像=<西棟七畳間、黒い艶消し瓦を敷いた半土間が、枯山水の庭と室内をつなぐ ©Kanmuri Yuki>、『たびこふれ』より引用)

また設計士であり現場監督も担当した室岡惣七は、東京帝国大学工科建築科出身。その知識を生かし、「耐震などの構造設計も精密に行って、間取りや衣装にも反映させた」ことが、数多く残る図面からうかがえます。(『遠山記念館だより』第62号)

室岡は、現場への建材搬入にも腐心しました。当時は、まだ舗装されていない悪路がほとんどであったため、運搬経路上にある木造の橋が、重い庭石や振動に敏感な大型ガラスを積んだトラックの通行に耐えられるかなど確認することは多くありました。例えば、表玄関で目を引く「6、7tはあろう鞍馬産沓脱石は、東京から荒川を遡上して搬入した」と伝えられています。(『遠山記念館だより』第62号)