ルーツを表に出した東棟
ところで、この住宅を建設した当時、施主の元一は46歳の働き盛り。26の年に設立した川島屋商店も大発展中とあり、元一自身の生活の基盤は都内にありました。そういうわけで、この邸宅は西棟が母美以の安住の住まい、また中棟は元一が貴顕の来客をもてなす場として設計されています。
では、なぜ表玄関が中棟ではなく、豪農風な東棟にあるのでしょうか?
その理由は、遠山元一のそれまでの人生に関わってきます。
もとより、遠山家は埼玉県比企郡川島郷きっての豪農でした。しかしながら元一は、この広大な土地を難なく受け継いだわけではありませんでした。のちに元一自身が記しているように(遠山元一「私の履歴書」(昭和31年6月))、元一の父親の道楽で、元一が高等小学校を出る14歳のときには、「田畑も山林も屋敷も人手に」渡ってしまっていました。それどころか、「(元一の)学資として、曾祖父が残しておいたものさえ」父親がきれいに使い果たしてしまったため、紆余曲折の末、元一は15の年に兜町の株屋に丁稚奉公することになります。ここで6年、さらに盲腸による入院手術をきっかけに転職した先の売買仲介店でもさらに6年ほど働きに働き、1917年(大正6年)ようやくお金の工面がついて買い戻したのが、この郷里の屋敷跡だったのです。

遠山家は郷里でも慕われていたようで、このおり所有者らは「「結構なことだ」「めでたい」とばかりに喜んで格安で譲ってくれたし、昭和八年から三年にわたった本宅の再建にも近郷近在こぞって協力してくれた」と、元一は語っています。(「私の履歴書」)
つまり、この「生家の再興」を象徴するのが、豪農風に建てられた東棟と表玄関なのです。
吟味された本物の贅沢
東棟に続く中棟も西棟もこだわりの建築材と細かな意匠が丁寧に施され、どこを切り取っても凛とした佇まいで見飽きることがありません。

接客に使われた中棟で目を引くのは、何と言っても十八畳の大広間と十畳の次の間でしょう。上品な紫色の壁は、柘榴石(ガーネット)を砕いた砂を塗った「本霞(ほんがすみ)」と呼ばれるもの。東南西の畳廊下には、当時としては貴重なゆがみのない大型ガラスがめぐらされ、大きな一枚絵のような庭園を一望できます。

十畳の次の間には、毎年雛祭りには江戸時代中期から昭和中期までの雛人形が、端午の節句には武者人形や鎧などが、それぞれひと月ほど賑やかに並べられます。ちなみに2023年の雛飾りは2月11日~3月12日を予定しており、重要美術品「武陵桃源図絵巻」も同時に初の一挙公開となります。