阪神間に残る実業家の住んだ家を語るうえで、外せないのが小林一三(雅号:逸翁)でしょう。今回は、阪急電鉄の創業者である小林一三の旧邸、雅俗山荘と周囲の見どころを紹介します。
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阪神間モダニズムの影響濃い土地
鉄道の周りに町と文化を築く事業展開
阪神間モダニズムの影響濃い土地

場所は大阪府北部、兵庫県との境にある池田市です。最寄り駅は阪急電車宝塚線の池田駅。大阪というより阪神間文化の影響が濃く残る地域です。
小林一三といえば、宝塚とか阪急電車のイメージが強いですが、出身は関西ではありません。1873年(明治6年)山梨県に生まれ、15歳から学んだのも東京なら14年間の銀行勤めも東京という関東人でした。その小林一三が関西に移り住んだのは1907年(明治40年)、34歳になってからのことでした。
鉄道の周りに町と文化を築く事業展開

関西に来てからの小林一三の活躍は広く知られる通りで、のちの阪急電鉄となる箕面有馬電気軌道株式会社の設立に一役買い、1910年(明治43年)には電車運行を開始。それと並行して沿線の住宅開発も行います。この時、同社が最初に分譲を行ったのが池田でした。続いて住民の需要を満たす施設も次々に展開。例えば、温泉や動物園などの娯楽施設に、宝塚歌劇につながる唱歌隊の創設。また、駅前にはデパートを開き、教育機関も沿線へと誘致します。さらに後には、映画興行などの東宝株式会社やプロ野球チームを設立し、ホテル事業へも進出します。
これだけ見ても、実に先進的かつ多角的視野をもつ人物だったことが分かります。
到底ここには書ききれませんが、その発想の豊かさと経営手腕を見込まれ、田園調布の開発や東京電燈株式会社(現在の東京電力)の近代化など、手を貸した事業も数知れずあります。その存在の大きさは、同時代の財界人の回顧録に小林一三の名が頻出することからも察せられます。一例を挙げると、前回紹介した高碕達之助(関連記事:花々に囲まれたヴォーリズ建築:高碕記念館)も、自身の事業立ち上げにあたり、一回り年上の小林一三に相談役を頼んでいます。
小林一三記念館内の「白梅館」には、同氏がかかわったさまざまな事業や、阪急グループの歴史が詳しく展示されていますので、興味ある方はぜひご覧ください。