沖の島の景観
冒頭でご紹介しましたが、沖の島は「石垣・石段とともにある暮らし」の集落景観が特徴的です!例えてみるならば日本版マチュピチュと言ったところでしょうか?

(画像=<石垣・石段で構成された母島集落>、『たびこふれ』より引用)

(画像=<母島集落の一角>、『たびこふれ』より引用)
島は急傾斜な地形が多く平地がほとんどないため、石垣を築いて家を建て、山には同様に石垣で段々畑を作りました。
集落の家々をつなぐ石段の道は狭く、人がやっと通れるような石段の道を「カルイ」と呼ばれる道具を使って生活物資を運びました。数百年にわたってコツコツと積み上げられ、迷路のように張り巡らされた石段は島の歴史そのものです。
集落によってその組み方や色合いも違います。弘瀬地区では灰色を帯び、母島地区では赤みを帯びています。また、石垣や石段の上に物を野菜などを干したり夕涼みなどに使う「干棚」があるのも島ならではの文化です。

(画像=<弘瀬集落の干棚から見る夕焼け>、『たびこふれ』より引用)

(画像=<干棚で干されている島の伝統野菜の落花生>、『たびこふれ』より引用)
沖の島の歴史
沖の島は一説には平安時代に既に人が住んでいたとも言われています。それは今昔物語集に妹背島として記述があり、それが沖の島のことではないかと言われています。また、遅くても鎌倉時代には山伏が沖の島に移り住んで修行していたり、関東の相模国の武家である三浦一族が島に流れ着いて住み始めたと言われています!
室町時代には土佐国と伊予国で島の領土が争われて分断されました。江戸時代に土佐側の主張が通って決着しますが、このような歴史的経緯により、弘瀬側は土佐。母島側は伊予。と、一つの島に現在も異なる伝統や風習が語り継がれ、独自の風土を形成しています。

(画像=<弘瀬集落に今も受け継がれる荒倉神社大祭の様子>、『たびこふれ』より引用)
「ヨーサンヤ!」と独特の掛け声などをしながら御神輿を担ぎます。