目次
宇陀松山の魅力4:万葉公園(かぎろひの丘)
宇陀松山の魅力5:松山西口関門と春日神社
宇陀松山の魅力4:万葉公園(かぎろひの丘)

万葉公園は、宇陀松山の街並みから見て西側中庄地域のかぎろひの丘にあります。日本書紀によれば、611(推古19)年の五月条に「夏五月の五日に、菟田野に薬猟す。」という記述があり、それを根拠にして整備された公園。
菟田野(うだの)とは宇陀野を意味しており、「阿騎野(あきの)」の推定地とされます。これは史料で確認できる日本初の薬猟の記録。大和王権の宮廷行事として実施されたもので、男性が鹿の角を取る、女性は薬草を積むことを行いました。

万葉公園には一面を芝生で覆われた場所と、東屋があります。そのほか当時の様子を再現した絵がパネルで置いてあり、当時の人たちがどのようにして薬草や鹿の角を取ったのかがわかります。
万葉歌人として有名な柿本人麻呂は、この地を歌で詠みました。692年に軽皇子(文武天皇)が、阿騎野へ遊猟に来た際に同行し柿本人麻呂が詠んだもの。『万葉集』巻1・48に収蔵されている「東(ひむがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへりみすれば月傾かたぶきぬ」という歌がとくに有名です。

また万葉公園のすぐ隣には阿騎野・人麻呂公園があります。これは1995年(平成7年)に発掘された中之庄遺跡の保存を目的として整備されました。公園内には柿本人麻呂像と人麻呂の歌碑が建てられています。
さらに時間があれば、西にある阿紀神社まで足を運びましょう。天照皇大神を主祭神として、4柱の神を配祀、さらに4柱の神々を合祀。境内には江戸時代に建てられた能舞台があり、毎年6月にあきの螢能と呼ばれる能が奉納されます。加えて阿紀神社に向かう途中に、高天原(阿紀神社旧社地)と呼ばれるパワースポットがあります。
宇陀松山の魅力5:松山西口関門と春日神社

松山西口関門は、宇陀川を渡ったところにあります。門が黒塗りをしているため通称黒門と呼ばれているもの。宇陀松山城の城下町の雰囲気が残っている門といえます。門をくぐった先は城下町の大手筋にあたります。門は16世紀末から17世紀初頭に福島高晴によって造営されたとか。
建てられた当時のまま残っている城下町の門としては貴重なものとして、道路の敷地を含めた部分が、1931(昭和6)年に国の史跡になりました。

西口関門から突き当りを右に曲がり、伝統的建築物の通りに入ります。史跡の植田家住宅「かぎや」を越え、さらに直進すると、宇陀松山城の春日門跡に行きます。立派な石垣が残っており、かつてはここから宇陀松山城に登城しました。
春日門跡の横に宇陀松山陣屋の跡があります。これは福島高晴が改易された後の話。織田信長の次男・信雄が宇陀郡の所領を得ました。信雄は宇陀とは別に現在の群馬県にあたる上野国甘楽郡の所領も得ており、信雄四男が上野国を五男が宇陀松山を継承。宇陀松山藩として城ではなく平地に陣屋を建て住みました。
宇陀松山藩の織田家は元禄時代まで存続しましたが、宇陀崩れ(うだくずれ)により、減封・国替えとなり、宇陀松山藩は廃藩、以降は天領となっています。

春日門から続く道は、いったん春日神社の境内に入ります。春日神社の歴史は宇陀の町並みが形成された時代よりも古く、室町幕府3代将軍足利義満が、宇陀の地を春日大社に寄進したことがきっかけで創建されました。
春日神社はその場所から宇陀松山城とのつながりが深く、城とつながっている抜け穴跡があります。また1291年に石大工の井行元(いのゆきもと)が作った銘が残る水鉢は、五輪塔を加工したもの。宇陀市の文化財に指定されています。