経済学からのコミュニティ期待論

ドラッカーの立場では、先進資本主義国家がますます肥大化する国民の福祉ニーズを充たせなくなった反省から、依然としてコミュニティを求める時代が続いていることになる。ただし、「かつてのコミュニティは、束縛的だっただけでなく、侵害的であった」(同上:269)という認識のもと、21世紀になってドラッカーは将来を見通した部分で、「新しい人間環境としての都市社会の行方は、そこにおけるコミュニティの発展いかんにかかっている」(同上:268)という結論に至った。

もっともドラッカーのコミュニティはNPOへの期待として語られており、経営学でのコミュニティ論の限界でもある。もちろん逆にいえば、社会学で長年論じられてきた地元密着型(locality-based)の共同関係や相互扶助ではないし、構成員を束縛も侵害もしないという新しい文脈で語られたところに特徴もある。

「コミュニティ」の復活・再建には、資本主義を壊すしかない?

少し遅れて経済学の中谷は、「近代化によって我々は『自由』という禁断の実を手に入れた。・・・・・・(中略)あらゆる制約から自由になったひとは、コミュニティの温かい人間関係を失い、社会の中で孤立してしまう」(中谷、2008:363-364)と書いた。

ドラッカーの認識とは異なり、ここでは資本主義が破壊する「社会とのつながり」(同上:138)の一部として温かな「コミュニティ」が想定されている。この対偶命題は、「社会とのつながり」を与える温かな「コミュニティ」を復活・再建するには、資本主義を壊すしかないということになり、中谷は盛んにブータンやキューバを持ち上げる注3)。

なぜなら、「これらの国がいまだにグローバル資本主義体制に組み入れられていないから」(同上:156)である。しかしこれではドラッカーの期待を裏切り、先進資本主義社会の都市のコミュニティは育たない。