「ブレーキの不具合」の可能性
一方、②の「事故発生時のブレーキの不具合」が原因だとすると、事故車両は、事故現場の碓氷峠の下り坂に差し掛かるまでに、同様の下り坂を問題なく走行していたのであるから、少なくとも、その時点まではブレーキに異常がなく、事故現場に差し掛かる下り坂で、突然、ブレーキに異常が生じたことになる。そのようなブレーキの故障が発生する可能性があるのかが問題になる。
この点について、自動車評論家の国沢光宏氏は、事故後早くから、以下のような指摘を行っていた。(当初は、ヤフーニュースに投稿されていたようだが、現在は削除されている。同氏の見解を支持する【群馬合同労組のサイト】に転載されている)。
そこで問題になるのが(ブレーキ)エアで作動する部分の凝水です(空気タンクには水が溜まる)30年程前よりエアドライヤという除湿装置が装備され凝水はほとんどなくなりましたが全くゼロでははありません。…外気温は低かったでしょうから凍結することは十分考えられます。坂を下り始めて排気ブレーキなりクラッチなりフィンガーシフトなりを操作した際にエアが流れ氷の固まりがどこかに詰まったと考えられます。」「エアブレーキ系の配管が凍結したことによる事故であれば、溶けた時点で原因全くわからなくなる。しかも全て正常に見えてしまう。
なお、国沢氏は、【最近のブログ記事】でも、刑事公判の動きに関連して、事故原因について同様の見解を述べている。
このような「エアタンク内に水が溜まり、エアブレーキ系の配管が凍結した」というのは、本件事故に至るまでの走行状況とも整合する。碓氷峠の頂上まで長い上り坂の間は、ブレーキは使わず、アクセル操作だけであり、その間に氷点下の気温で配管内の凍結が生じ、下り坂になって急にブレーキが利かなくなった可能性もある。
事故原因の解明を警察捜査の結果だけで終わらせてよいのか
長野警察の捜査では、本件事故の原因は、前記①の「運転手が大型バスの運転未熟のために操作を誤り、下り坂をニュートラルで走行したために、制御不能となった」と特定された。しかし、これについては、未だに多くの疑問がある。
「T運転手の運転技術が未熟であったために、下り坂の運転操作を誤ったとすると、事故に至るまで、同様の下り坂を、問題なく安定走行していたことの説明がつかない」
「全ての運転者は、危険を感じたらブレーキ(制動)を踏むはずだ。」
など、T運転手の同僚のO氏も、【鑑定士のブログ】で指摘しているとおりだ。
一方、警察の捜査結果や事故調査委員会報告書で、「想定されるもう一つの原因」である前記②「何らかの原因によるブレーキの不具合により、ブレーキが効かず、減速できなかった」との原因の事故であることを否定するに十分な根拠が示されているといえるのか、疑問だ。
もっとも、刑事裁判で、弁護側は、この事故原因の問題は主たる争点にはしていないようだ。公判では、最大の争点は、検察が主張する前記①の事故原因についての被告人らの「予見可能性」であり、その事故原因に多くの疑問があるということは、そういう原因で事故が発生することの予見が困難だと主張する根拠にもなるので、その分、検察の有罪立証のハードルを高めることになる。弁護側が、公判戦術として、「事故原因」をあえて争わず、「予見可能性」に争点を絞るのは、ある意味で合理的と言えるだろう。
しかし、重大事故の真相解明は、刑事責任の追及のためだけに行われるものではない。
将来への希望に胸を膨らませていた多くの若者達の生命が一瞬にして奪われた重大事故が、なぜ発生したのか。真の原因を究明することは、同様の悲惨な事故を繰り返さないために、社会が強く求めるものであると同時に、尊い肉親の命を奪われた遺族の方々の切なる願いだ。
この重大事故を「社会に活かす」ためにも、真の事故原因の究明に向けての取組みは、刑事裁判とは離れるとしても、可能な限り行っていくべきではなかろうか。そのためには、警察が特定した前記①の「運転未熟」による事故原因に対する疑問に向き合うこと、そして、前記②の「ブレーキの不具合」を否定する根拠が十分と言えるのか、改めて検討する必要があるのではないか。