■
こうした中、2月27日夕方、専売局の闇煙草摘発隊と警官が台北大稲埕にトラックで乗り付け、逃げ遅れた台湾人寡婦林某(40歳)を捉まえて煙草と所持金を取り上げた。その際、銃で頭部を殴打され血だらけになった林を庇った抗議者らに摘発隊が発砲、陳という若者が死亡する事件が起きた。
これまでに溜まった鬱憤もあって激怒した台北市民は翌28日午前、かつてない規模で専売局に押しかけ、殺人犯の処罰と今後の安全保障を求めた。デモ隊は中国人局長らが逃げ出した局内に乱入し、酒や煙草を焼き払い、長官公署に向かったが、機関銃の一斉射撃に遭って多数の死傷者を出した。
が、デモ隊は「打倒貪官汚吏」を叫び放送局を占拠、ラジオで事件の経緯を流し、全島民の決起を促す。慌てた陳儀は臨時戒厳令を公布、トラックに分乗した武装兵が至る所で発砲し、さらに多くの犠牲者を出した。市民の怒りは極度に達し、中国人店舗を焼き討ちし、中国人と判れば殴打した。
3月1日、台湾人の反乱は中部にも波及し、台北では「煙草取締流血事件調査委員会」が結成され、戒厳令解除、逮捕市民釈放、発砲禁止、二二八事件処理委員会設置、以上4項目の陳儀による市民への告知、などが長官公署に提出された。翌2日、陳儀は「委員会」に会い、この要求を受諾した。
同日に召集された「処理委員会」決議4項目などの受け入れも含め、陳儀の妥協姿勢のすべては、実は時間稼ぎの擬態に過ぎなかった。裏で陳儀は大陸の蒋に、「共産党と日本残存勢力の煽動によって、無知な群衆が多数暴動に参加し、情勢は緊迫しつつある」と打電し、援軍を求めていた。
蒋はすぐ「歩兵一団、憲兵一営、遅くとも七日上海より台湾へ出発する、心配なかれ」と返信した。この辺りに筆者は、台北への遷都を既に決心していた蒋が、陳儀の告げる台湾の偽情報、とりわけ「共産党と日本残存勢力」の二つの語を、如何に深刻に受け止めたかが現れているように思う。
3月8日午後に憲兵隊二千人、9日には米軍の援助で近代武装した陸軍二十一師団八千人が基隆に上陸し、容赦なく台湾人に襲い掛かった。陳誠参謀総長が10日に蒋への報告した「台湾事件之経過及処理方針」は、陳儀の暴政には一切触れず、事件は専ら共産党の煽動によるものと論断した。
斯くて台湾人に対する無差別虐殺は基隆と高雄に始まり、屏東や花蓮・台東に波及した。伊藤潔は「後に国民党政権がその一ヵ月に28千人が殺害されたと発表」した「台湾人の悲劇」は、「日本統治下で体得した『法治国家』『法の支配』の精神を、国民党政権にも期待し、幻想を抱いたこと」と喝破する。