「二二八」の大虐殺は国民党一党独裁(以下、国府)の治下で永らく秘匿されてきた。が、80年代後半からの台湾民主化の流れの中で、多くの関係者の手記や公的資料(『大渓擋案』など)の公開などにより真相解明が漸次進み、数万人に上る台湾人の犠牲者が出たことが明るみに出るに至った。

「二二八事件」はウクライナのこの先を映す鏡か?
(画像=公安局台北支局(現在の忠清南路)前に集まった大勢の抗議者たち(1947年2月28日) 出典:Wikipedia、『アゴラ 言論プラットフォーム』より 引用)

植民地支配者として権力をふるったが、法と秩序を遵守して積極的に台湾の開発と経営を進めた日本に比べて、国府の腐敗と無能ぶりは目に余るものがあった。特に中国伝統の「官衛家産化」思想による縁故者雇用の芋蔓式人事は、行政の非効率と政府予算の激増を生じさせた。

日本統治期に18千人余だった行政長官公署の要員は43千人に激増、別に数万人の日本人留用も必要とした。しかも登用された台湾人(本省人)官吏は、一級職ゼロ、二・三級職各9%台、四級職18.6%、五級職33.4%に過ぎなかった(当時の人口は本省人約6百万、外省人約1百万人とされる)。

要職を独占した国府の高級官吏や軍人による経済破壊と搾取行為も激烈だった。総督府専売局から接収した樟脳42万トンは4百トンに急減し、350万箱あったマッチでも直ぐに「マッチ欠乏」騒ぎが起こる。米や砂糖は日本向けから大陸向けになり、国府の投機で47年1月の米価は4百倍に高騰した。

伊藤潔の『台湾』(中公新書)によれば、47年2月28日までに長官公署が接収した日本の台湾残置資産(敵産)は、公的機関29.4億円(593件)、民営企業71.6億円(1,295件)、民間私有財産8.9億円(4万9千件)の合計109億9千万円に上った。これの接収過程で国府官僚の私腹も肥やされた。

また天文学的数字の紙幣が印刷され、45年9月の19,3億元から47年末には171.3億元に達した。結果、経済破壊が加速、30万以上の失業者が巷に溢れた。こうした国府の圧政は台湾人の反感を買い、また自覚を促し、巷には次のような放言が流布された。

我々は犬(日本)を追い出したが豚(中国)に這入られた。犬は家の番をするが豚はただ食い荒らすばかり。否、犬の代わりに来たのは虎だ。犬は忠実に我々を守るが、虎は食い荒らすばかりでなく我々の命まで奪ってしまう。日本人は搾取と開発を同時に遂行したから五十年居られたが、中国人は搾取と破壊を同時に強行しているから五年も居られようか。否、居られまい。

台湾人は自衛のための行政改革、軍規粛正、汚職官吏更迭などの改善を求めたが、行政長官公署は悉く拒否し、むしろ監視取締りを強化した。国府は終戦直後から、全島至る所に「特務営」、「第二処」、「調査室」、「省党務」(今の共産中国でよく聞く名称)などの秘密警察(特務)網を張り巡らせていた。

陳儀長官はこれら「特務」を駆使し、46年3月から大規模な「漢奸狩り」に着手、捕らえられた政府批判者や反対者はありもしない罪を着せられ、国府特有の「集中営」(それは台北の「労働訓導営」や台東の「遊民集芸所」などで、北京による新疆ウイグルを髣髴する手法だ)に収容された。

史明の『台湾人四百年史』(新泉社)は「特務」について、ナチスドイツの「ゲシュタポ」やソ連の「KGB」と並べて論じる。即ち、中国伝統の殺し屋ギルド「青幇」の系譜である戴笠の「藍衣社」や陳果夫・立夫の「CC団」がそれで、後者は国民党中央党部調査統計局(中統)として、探索、監視、人さらい、暗殺などを業とする悪虐なテロリストとして君臨していた。

当時の台湾人の意識を調査した米OSSの記録によれば、台湾人は中国人支配を望まず、米国の信託統治を望むというものだった。国府の林文奎空軍司令官も同様の民情観察に基づき、陳儀の専制腐敗ぶりを蒋介石に密告、このままでは大きな災禍が起こると忠告したが、蒋の答えは林の解任だった。