セントルイス、イーストセントルイスから黒人が移住したファーガソンに残る禍根

きびしい生活環境に追いやられていた黒人の方々は積極的に声を上げ、自分たちが生きてきた場所の特定作業に早くから参加していたのではないかと思われるかもしれません。

ただ、それもまたかなりむずかしいことだったと思います。

セントルイスで大モニュメント建設計画が持ち上がったころ、ミシシッピ川を隔てた対岸の町、イリノイ州イーストセントルイスでも、同じように市街中心部に住んでいる大勢の黒人世帯を移住させる都市開発が実施されました。

この両市から追い出された黒人の多くが移り住んだのは、近郊のミズーリ州ファーガソン市でした。

「どこかで聞いたことのある地名だな」と思われた方もいらっしゃるでしょう。

2014年に2車線の狭い車道を武器も携行せずに歩いていた当時18歳の黒人少年が、パトカーで巡回中の白人警官に「歩道を歩くように」と言われて口論となり、激昂した警官が至近距離で発砲した銃弾で亡くなった事件の現場となった町です。

これは「黒人の命も大切だ(BLM)」運動のきっかけともなった事件です。

まったく同じ状況だったとしても、車道を歩いていたのが白人少年だったら、あるいはもっと白人の多いコミュニティに住んでいて「分際をわきまえておとなしく振舞う」黒人少年だったら、起きなくて済んだ事件かもしれません。

これは共和党を支持する保守派の意識を変えれば解決する問題ではない

「大都市中心部から醜悪な景観を追放するための巨大なモニュメント建設計画」が発案されてから、そろそろ1世紀が過ぎようとしています。それでもなお、アメリカの人種差別問題は、こんなに根深く残っているのです。

ご注意いただきたいのですが、私が言いたいのは「だから共和党保守派の連中の意識を変えて、人種や民族系統、あるいは性的なマイノリティが平等に権利を持つ社会にしなければならない」ということではありません。

民主党リベラル派の人たちの多くは、そういう方向に意識を変えていけばあらゆる差別は解消されるはずだと主張しています。

ですが、結果的に大都市中心部から大勢の黒人を追い出すことになったゲートウェイ・アーチプロジェクトに大統領令でゴー・サインを出したF・D・ローズヴェルトも、竣工時の大統領だったリンドン・B・ジョンソンも民主党リベラル派でした。

落成式でもっとも地位の高い貴賓としてあいさつしたヒューバート・ハンフリー副大統領は「このプロジェクトがアメリカ中の大都市からスラム街を一掃するきっかけとなることを切実に願う」と述べています。

ハンフリーは生粋の民主党リベラル派よりもっと「左」で、政界で頭角を現したのは民主農民労働者党という極小政党の党首として、ミネソタ州ミネアポリスという州随一の大都市の市長に当選してからでした。

大都市中心部に存在する「醜悪な」黒人居住区を物理的に一掃することは、比較的かんたんです。

ですが、歴代民主党副大統領の中ではかなり左寄りだったハンフリーでさえも、そこを追い出された黒人たちの多くは、自家用車も持たずに公共交通機関のまったく存在しない郊外や地方小都市でもっと不便な生活をしなければならないことに気づいていません。

ときとして、民主党リベラル派はこういう深刻な問題に気づいているけれども知らんぷりをしている偽善者であって、自分たちの差別意識を比較的率直に表面に出してしまう共和党保守派よりよっぽどたちが悪いのではないかとさえ思います。

どうしてそこまで勘ぐるのかと、ご不審の方もいらっしゃるでしょう。

ですが、1960年代に「バスの座席を白人用と黒人用に分けるのは、区別はしていても平等だ」という屁理屈を押し通して極端な差別待遇をしていたアラバマ州などの公共交通機関の運営が違法だという連邦最高裁の判決が出てから、ある重大な変化が起きました。

アメリカ中で「バスに乗るのは貧しい人だけ」という観念が急激に広まり、白人世帯のあいだでかなり低所得でも無理をして自家用車を持つ世帯が増えたのです。結果的に、バスに乗るのはほとんど黒人やヒスパニックのひとたちだけという状況は、今も続いています。

自動車が陸上交通機関の主役となった社会では、金持ちも貧しい人も乗車賃さえ払えば、同じような時間で同じような場所を行き来することができるという平等性が失われてしまいます。

自動車文明とは、本質的にそういう差別を容認し、さらに固定させるものだと思います。