壮大な景観美と、人為的につくられた記憶の真空地帯

私が今回セントルイスを取り上げようと思い立つきっかけとなった2枚組写真をご紹介しましょう。

地元のSNS(オルタナティブ)メディアである『リバーフロント・タイムズ』に、「ここはいったいどこでしょう? 今はゲートウェイ・アーチ国立公園になっている旧リバーフロント地区の中であるとは思うのですが」という記事が掲載されました。

クルマが殺したアメリカの町:ミズーリ州セントルイス
(画像=『アゴラ 言論プラットフォーム』より引用)

そして、読者の投稿の中に、ほぼこの場所に間違いないと断定するものがあり、正面角の薬品販売会社の看板や、手前のパブのような店などを特定することができて、結論は次の場所だと決まりました。

クルマが殺したアメリカの町:ミズーリ州セントルイス
(画像=『アゴラ 言論プラットフォーム』より引用)

たしかに、道路付きもまったく違っていて、たまたまどなたかが鮮明な記憶をお持ちでなかったとしたら、とうてい同じ場所とは思えません。壮大なモニュメントという以外には建造物の種類さえ決まっていなかったころから、あの膨大な土地面積の大半は緑地として残し、広大な空間に建っているのはモニュメントと、ごく少数の歴史的建造物、博物館、劇場だけにするというのが、当初からの計画でした。そして、ご覧の地図でおわかりのように、この全体計画は忠実に守られています。

クルマが殺したアメリカの町:ミズーリ州セントルイス
(画像=『アゴラ 言論プラットフォーム』より引用)

すでにご紹介した都市計画官の活躍もあって、セントルイス市で建築許可を取れるビルは今でもこのアーチのてっぺんまでの高さの半分以下というふうに制限されています。ですから、セントルイスのやや低めのスカイラインの中に屹立するゲートウェイ・アーチ周辺の夜景は、とくにみごとです。

クルマが殺したアメリカの町:ミズーリ州セントルイス
(画像=『アゴラ 言論プラットフォーム』より引用)

ですが、景観がきれいかきれいでないかは、個人の趣味によって評価が大きく変わります。その景観を美しく保つために、市街地中心部をほとんど実用性のないモニュメントと緑地に限定してしまうのは、あまりにも機会費用が高いのではないでしょうか。

もうひとつ、経済的な機会費用に勝るとも劣らないほど大きな損失があります。それは、街並みに関する記憶がまるで大量虐殺に遭ったとでもいうようにかき消されていることです。たしかに、建物に関する記憶は解体されるやいなや急速に風化していくというのは、元建設業界担当の証券アナリストとして、数え切れないほど多くの解体現場、建設現場を見てきた私の実感でもあります。

しかし、それはどんなに見慣れた風景であっても、決してその中に住んでいた人の実感ではなく、通りすがりの人間の実感に過ぎません。ところが、市道路下水道局専任カメラマンだった方の姓を冠して『リーメン「通りと下水溝」コレクション』と名付けられ、公立図書館に収蔵されている約1500葉の写真のうち数百葉もの風景写真はどうしても場所が特定できず、その大部分はどうやら旧リバーフロント地区のものらしいというのです。

隠しようのない住宅地差別の証拠を忘れ去りたかったのか

どう考えても、まだ1960~70年代ぐらいの比較的記憶の生々しかった時代に、「私が当時住んでいたところで、あの四つ角は横に通っているのが○○丁目で、縦が▲▲街です」と場所を特定する発言がはばかられる雰囲気があったとしか思えません。

そして、その雰囲気が薄れたころにはご記憶の方がいらっしゃらなくなってしまったということがあちこちで起きていたのではないでしょうか。

もし、そうだとすれば、その謎の沈黙を解くカギはこの風景が消滅した1930~40年代にはまだ強烈な居住地差別があり、一方新しい景観が誕生した1960~70年代にはそうした差別を糾弾する公民権運動がもっとも盛り上がっていたという時代背景にありそうです。

次から3枚の写真を比べてみていただきたいと思います。

クルマが殺したアメリカの町:ミズーリ州セントルイス
(画像=『アゴラ 言論プラットフォーム』より引用)

最初は、1930年代当時に「意識の高い」市民の方々が、目の敵として一掃しようとしていた黒人居住地区の風景です。大不況の待っただ中ということもあり、子どもたちの着ている服などもボロボロです。そのへんは、個人の努力の範囲内と強弁することもできるでしょう。

ただ、広い歩道いっぱいに敷いてあるはずの敷石がろくに補修もされず放置されているところからは、明らかに市当局が白人居住区やオフィス街、繁栄している商店街と露骨に対応の差を付けていたフシが見受けられます。というのも、白人の方々が買いものをしていたと思える通りの整備状況はまったく違うからです。

クルマが殺したアメリカの町:ミズーリ州セントルイス
(画像=『アゴラ 言論プラットフォーム』より引用)

お買いものに行くところか、帰りのお母さんと子どもでしょう。歩道のところどころにヒビ割れはありますが、敷石が浮いたり外れたりしないようにまめに整備しているのは明らかです。

クルマが殺したアメリカの町:ミズーリ州セントルイス
(画像=『アゴラ 言論プラットフォーム』より引用)

こちらは、もう少しオフィス街に近い商店街でしょうか。手前の間口も広くどっしりした構えの店は、書店だと思います。歩道と車道の境には当時新発明であったと思われる、時間が来ると針がてっぺんに来る仕掛けのパーキングメーターまで設置してあります。

広いと言っても、全体で30~40ブロックぐらいの土地の中に、こうして大不況の中でもかなり豊かな暮らしをしている白人たちの居住地、商業地、オフィス街と、衣食住すべてにわたってきびしい生活をしている黒人居住区がひしめいていたわけです。

やはり、1960~70年代まで生きてきた白人の方々のあいだでは、この現実の中で暮らしていたことをすなおに認めにくいと感じる人も多かったのではないでしょうか。認めれば、当時の公民権運動を担っていた黒人や若く教育水準も高い白人によって「過去の罪」を糾弾されかねないという思いもあったでしょう。