かつての「ポストモダン」論や現在の「資本主義の終焉」論の領域でも、「その後」「その先」という以上に表記が進まず、この傾向は残念ながら今日まで続いている。
たとえば「次」や「脱」の名称が明記された経済社会学的研究には、ベル「脱工業社会」(1973=1975)、ハーヴェイ「ポストモダニティ」(1990=1999)、サター「減成長」(2012=2012)、ラトゥーシュ「脱成長」(2019=2020)、斎藤幸平「脱成長コミュニズム」(2020)、カリスほか「脱成長」(2020=2021)などたくさんある。
しかしいずれも「次」や「脱」のあとに控える目標地点として、経済社会システムの名称の具体的な表現がなされてこなかった。
同じく社会学の領域からも、「世界史的な視野から見れば、現代資本主義の将来はきわめて不透明である」(プラマー、2016=2021:130)という指摘がなされ、経済学でも社会学でも「新しい資本主義」の将来像が鮮明にはなっていない。
行く先の港のない船にはどんな風も役に立たないただアーリのいうように、いくら移動型社会(アーリ、2016=2019)になっても、個人も社会システムもその目標地点が不明であれば、どこを目指していいのか分からない。
『エセー』にいわれるように、「行く先の港のない船にはどんな風も役に立たない」(モンテーニュ、1588=1966:239)は時代を越えて真理である。なぜなら、経済社会システムを動かす「資本主義エンジン」(シュムペーター、1950=1995:176)や「経済エンジン」(ハーヴェイ、2014=2017:15)がいくら快調でも、「新しい資本主義」の進む方向が鮮明でないと、アイドリングのままで無駄に社会資源を消費してしまうからである。
京大・日立製作所政策提言グローバルグループの大谷がいうように、「『自分らしさ』を尊重し、おのおのが創意工夫した人生を織りなすことができる社会こそ、われわれがめざすべきポストコロナ社会の未来である」(大谷、2012:12)。ただし「ポストコロナ社会」ではせっかくの未来シナリオが鮮明にならないので、代わりに「社会資本主義」の活用を期待する。