それを国家権力が「許される政党」と「禁止される政党」に線引きするのであれば、独裁国家と何も変わらないのです。
もちろん、民族社会主義や主体思想といった全体主義的イデオロギーは、自由主義者にとって断固として拒絶すべきものです。
しかし、彼らの表現の自由すら封鎖するのであれば、私たちは自ら「反対派を弾圧する権力者」と同じ側に堕ちてしまいます。
自由主義的な秩序とは、気に入らない意見を力で封じることではなく、すべての立場がオープンな議論で競える環境を意味します。

ヨーゼフ・ゲッベルス長官
第三帝国の国民啓蒙宣伝長官、ヨーゼフ・ゲッベルスはかつて次のような発言を残しました。
「もし我々の敵がこう言うとしよう──『かつて我々は君たちに言論の自由を認めてやったではないか。だから今度は君たちも我々に認めるべきだ』と。だがそれは、我々が君たちにも自由を与えなければならない証拠にはならん!むしろ、君たちが我々にそれを与えたという事実こそ、君たちがどれほど愚かであるかの証拠なのだ!」- 1935年12月4日
この発言は、しばしば「戦う民主主義」を正当化するための言い訳になります。
しかし、私たちはこう言い返さないといけません。
「深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ」
民主的に選ばれた政党が反対派を弾圧する様子が、ナチスと異なるのでしょうか。ゲッベルス長官が今のドイツを見たらこう言うのでしょう。「ほらみろ!君たちも我々と同じではないか」と。
「戦う民主主義」という虚像を脱ぎ捨て、自由主義の原点に立ち返るなら、政府がまずやるべきことはAfDや共産主義者を排除することではありません。デマを防ぐためにSNSを検閲することでもありません。
むしろ、彼らが暴力を使わない限り彼らの声も選挙市場に等しく委ね、国民が自らの判断で取捨選択できるようにすべきです。
そして、国民が全体主義思想に陥れないように、規制廃止、減税、政府の縮小を実現して、豊かな社会を作らなければなりません。