では、現在の日本はどうでしょうか。

日本国憲法には「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」と規定されており、ドイツのように「戦う民主主義」を採用していません。

しかし現実には、誹謗中傷対策という名目で民主的に選ばれた政府がSNS業者に対応を求めたり、移民政策への懸念の声を「政府の邪魔をするな」「デマだ」といった形で無視する場面も見られます。 これはドイツのCDU政権と大きな違いがあるとは言えないでしょう。

ちなみに、日本の自民党とドイツのCDUはいずれも「保守政党」を自称していますが、国家による介入主義が強いという共通点を持っています。

私たちは、ドイツで行われている自由の弾圧に注目し、日本における状況も同じ傾向を示しているのではないかと問い直す必要があるかもしれません。

こうした事例を見ると、東欧や北朝鮮・中国と自らを対比しながら「自由民主主義国家」を自称する第一世界の言説が、どれほど偽善的かがよくわかります。そして、その対立構造を煽って人々を騙してきた冷戦的秩序の欺瞞も明らかです。

結局のところ、彼らの「戦う民主主義」とは民主主義を守るための美名をまとった「(既得権益のために)戦う民主主義」に過ぎないのではないでしょうか。

全体主義を防ぐためと言いながら、結局は「自分たちの体制を守るため」にしか使われていない。 自由主義の観点からすると、どちらも自由の敵です。

4. 「戦う民主主義」という虚像

これらの件を踏まえると、自由主義の観点からすれば、「戦う民主主義」なる概念は極めて危険です。なぜなら「ナチスを繰り返さない」と叫びながら、ナチスのように体制批判者を迫害し、「北朝鮮とは異なる」と言いながら、北朝鮮のように思想の自由を検閲しているからです。民主主義とは、市民が自由に選択肢を持ち、それを投票で選び取る制度のはずです。