20年1月1日、フィンランド軍情報部は「第二室」(Toimisto II)として計5名の規模で参謀本部内に創設。8年後には正式に「第二部」(Osasto II)へ昇格し、当時は合計12名の将校が働いていたという。

第二部内でSIGINTの専門家となったハラマーの提案もあり、27年以降、フィンランド軍情報部はソ連海軍通信傍受の為にヘルシンキ、ヴィープリ(Viipuri)、ソルタヴァラ(Sortavala)にソ連暗号通信の傍受基地を設置。35年にはフィンランド軍情報部がソ連海軍の新型暗号を解読することに成功し、バルチック艦隊の艦艇の種類や名前、行動内容を暗号解読によって完全に把握していた

IMINTとしては、独ソによるポーランド侵攻直前の1939年4月30日から8月29日にかけて行われた、フィンランド空軍のブリストル・ブレニム軽爆撃機による23回のソ連への偵察飛行が有名だ。

この偵察飛行は写真撮影を阻む厚い雲など天候に左右されることも多かったが、バルチック艦隊の母港であるクロンシュタット軍港など13回の偵察に成功。この偵察飛行にはフィンランド軍情報部と協力関係にあったドイツ国防軍情報部(Abwehr)の将校がブレニム機に同乗することもあったという。

同年11月29日、少佐に昇進したハラマー率いるフィンランド軍情報部は赤軍機甲旅団が翌30日午前6時にフィンランドへ侵攻するよう命令を受け取ったことを無線傍受で知った。ハラマーはこの情報をフィンランド軍総司令官マンネルヘイムに直接伝え、ソ連軍の無線封止が解除されたことも理由に侵攻が開始されると述べた。

既に南の隣国であるエストニアの軍情報部の協力によってソ連軍最高機密であった大隊級以上の部隊暗号OKK-5を解読していたフィンランド軍情報部は同軍がその後の対ソ戦を有利に進める上で大きな活躍を果たした。

現代のフィンランド軍情報部

日本を含めた多くの国の情報機関と同じく、現代のフィンランド軍情報部の実際の活動については殆ど公にされていない。但しフィンランド国内での大規模なカウンターインテリジェンス案件やフィンランド軍の海外展開の際には関与が報道されることがある。