戦争博物館によると、「二度の原爆投下は連合国が望んだ通りの効果をもたらした」。8月10日、「日本は一定の条件の下で敗北を受け入れる用意があることを表明」し、8月14日、「ついに無条件降伏の要求を受け入れた」からだ。

翌15日は英国では「対日戦勝記念日」(VJデー)になる。ただし、「日本の最終的な降伏文書が調印され、第2次世界大戦が正式に終結したのは9月2日のことだった」。

なぜ原爆投下?

連合国側はなぜ日本の民間人にこれほど前例のないほどの破壊を与える必要があると判断したのだろうか?

戦争博物館によると、「ポツダム会談(1945年7月17日~8月2日)において、連合国は日本との戦争終結のための条件を策定した。その条件は、5月にナチス・ドイツと合意したように、日本が無条件降伏を受け入れることを中心としていた」。

「しかし、連合国側は、日本の昭和天皇が戦闘の終結を望み、要求された無条件降伏を受け入れる可能性が高い一方で、日本の軍部および民間指導部の『タカ派』がそのような屈辱的な状況に断固反対し、それがどのような形であろうと最後まで戦う覚悟があることも認識していた」。

連合国側はこの認識の下、無条件降伏を求めるポツダム宣言に向かっていく。

ポツダム会談開会前日の7月16日、米ニューメキシコ州北部アラモゴードの砂漠にある「トリニティー」(三位一体)実験場で史上初めての核実験が実施された。長崎に投下されたものと同じプルトニウム型原子爆弾の実験だった。

人造兵器としてはかつてないほどの破壊力を示す爆弾の実験で、「一瞬にして、戦争の様相は一変した」。

ダウンフォール作戦が計画されていたが

原爆投下前、日本本土への連合軍(主としての米軍)の全面侵攻計画「ダウンフォール作戦」が計画されていた。武力による無条件降伏を目的として、1945年11月から1946年春までの実施を予定した。

しかし、米軍の死傷者が「雪だるま式に増加し、中には数百万人に達するものもあったため、作戦立案者たちは必死に代替策を模索し始めた」。代替案として浮かび上がってきたのが、原爆投下だった。