近衛 今どちらかでやれと言はれれば、外交でやると言はざるを得ず。戦争は私は自信ない。自信ある人にやって貰わねばならぬ。

東條 これは意外だ。戦争に自信がないとは何ですか。それは国策遂行要領を決定する[御前会議の]ときに論ずべき問題でしょう。

東條は徹底した前例主義で、内閣と参謀本部が共同で天皇に開戦撤回を上奏しない限り、軍は従わないと主張した。天皇の下に多くの組織がバラバラに並び、指揮系統がない日本型組織の欠陥が露呈し、近衛は開戦を目前にして辞任する。

参謀本部の戦略には日米戦争がなかった

参謀本部はどういう戦略を考えていたのだろうか。帝国国策遂行要領で田中新一は「南方戦争を先行させ、自給自足体制を固め、アジアにおける対英米優位の地位を確保した上で北方戦争に乗り出し、この間に国際政局の変化に乗じて支那戦争を解決する」という戦略を描いていたが、そこには驚いたことに日米戦争がなかった。

海軍が対米決戦を求めて中部太平洋に奥深く進攻する「攻勢」を主張したのに対して、陸軍は南方・太平洋で「守勢」をとり、その兵力を大陸に転用することを主張した。アメリカについては「日独伊は協力し対英措置と並行して米の戦意を喪失せしむるに勉む」と書かれているだけだった。

アメリカが和平交渉の打ち切りを通告してきてからも、田中はこれをヨーロッパに参戦するまでの「時間稼ぎ」とみていた。彼の関心は最後まで「北支及び満蒙の特殊地域化」にあり、アメリカは東南アジアの権益にさほど強い関心はもっていないと思っていた。

自由主義とデモクラシーは最強の武器だった

陸軍も日米の物量の差はわかっていたが、短期決戦で一撃を与えれば、アメリカは戦意を喪失して勝負がつくと考えた。戦争を遂行するには日独のような全体主義の指導力が必要で、個人主義のアメリカ人はすぐ逃げると考えたのだ。陸軍省軍務課の石井秋穂は、こう回想している。

あの自由主義の国、あのデモクラシーの国で、あの厖大なる国力をあの速さに、あの規模に戦力化し得るとは考えなかった。我々は自由主義とデモクラシーを甘くみたのである。(石井回想録)