日本は開戦当初から一貫して情報戦に敗北していた。山本五十六自身、戦争が長期化すれば米国に勝てないことを明確に理解していたにもかかわらず、開戦初期の1〜2年で戦果を挙げれば、日本に有利な条件で講和できると信じ、真珠湾攻撃に踏み切った。この見通しこそ、情報戦における根本的な敗北の象徴である。

降伏の方法に関しても、日本は非現実的な幻想に囚われていた。戦局が絶望的となった後も、一撃を加えることで天皇の命を守りつつ、名誉ある条件で降伏できると信じ続けた。この思い込みは、結果として原爆使用の余地を米国に与え、最終的な降伏の決断を遅らせる要因となった。

講和条件の仲介においても、日本は致命的な誤算を重ねた。最も信頼に値しない相手であるソ連に対し、天皇の命を守ることを主な条件とした降伏交渉の仲介を計画し、貴重な時間と外交資源を浪費した。欧州現場の日本大使館から「ソ連は信用に足らず」とする警告が発せられていたにもかかわらず、上層部はこれを黙殺した。

予想通り、ソ連は日本の期待を裏切り、交渉は徒労に終わった。むしろソ連は対日参戦を選び、日本の外交的孤立を決定的なものとした。

この一連の判断は、情報戦における継続的な敗北と、天皇守護・国体維持を絶対視する国家方針がもたらした構造的悲劇である。日本は、戦略的合理性よりも象徴的価値を優先したことで、降伏受け入れへの道において、取り返しのつかない犠牲を支払うこととなった。

一部の日本人は「ソ連の裏切り参戦が降伏の決定打であり、ヒロシマは無関係」とするが、それは誤解である。欧米の識者の多くは、広島への原爆投下とソ連参戦をセットで捉えており、「ヒロシマによって降伏が基本的に決定される方向になった」というのが定説である。

実際、ヒロシマの悲劇を受けて昭和天皇は8月8日、外相・東郷茂徳に以下のように伝えている(これはソ連参戦前の発言である):

「この種の兵器の使用により戦争継続はいよいよ不可能にして、有利な条件を獲得のため戦争終結の時機を逸するは不可につき、なるべく速やかに戦争を終結せしめるよう希望する」