日本の「降伏受け入れ」と「ヒロシマ」をめぐる意思決定の構造

1945年7月26日のポツダム宣言によって日本に無条件降伏が求められたが、日本政府はこれを「黙殺」した。この対応は、国際社会に対し「日本は降伏の意思を持たない」との印象を与え、結果として原爆投下を含むあらゆる手段の正当化につながった。

最終的には8月14日に天皇のご聖断により、ポ宣言を受け入れた。なぜこんなに時間がかかったのか?その間、ヒロシマとナガサキに原爆が投下されて、人類史上最悪ともいえる被害が出た。

当時の日本指導層にとって「無条件降伏」は、天皇制および国体の否定と同義であり、受け入れがたいものであった。民間人を含む多数の犠牲者を出した連日の空襲にもかかわらず、降伏は選択肢に入らなかった。日本の戦争終結における意思決定は、国民や国土の保全ではなく、天皇と国体の維持を最優先するという極めて特異な構造に貫かれていた。この点は、日本近代史に通じる者にとってはむしろ明快であり、当時の指導層に国民主権・国民優先の意識は、天皇と比較するとほとんど存在しなかった。

戦後、GHQは日本人に新憲法草案の作成を命じたが、提出された松本案は明治憲法とほぼ同様に天皇に全権を与える内容であった。これに驚いたチャールズ・ケーディス中佐は、即座に国民主権を導入。さらに、ベアテ・シロタ・ゴードン女史は、日本の女性に結婚相手を選ぶ権利や選挙権を認めるなど、当時のアメリカ本国よりも進んだ女性の権利を憲法に盛り込んだ(両者とは複数回にわたり直接対話した経験がある)。

*象徴の優先と情報戦の敗北:日本の降伏判断をめぐる構造的悲劇

サイパン陥落以降、日本は敗北の現実を否応なく認識していた。しかし、国家の最優先事項は国民の生命や国土の保全ではなく、あくまで天皇の尊厳と国体の維持に置かれていた。この選択は、戦局の悪化に伴い、数々の戦略的誤判断を誘発することとなった。