また仇討ちは表向き武士にしか認められていませんでしたが、百姓や町人が仇討ちをすることもしばしばあり、これらの仇討ちは黙認されていました。

そんな仇討ちですが、成功率は数パーセントとも言われており、非常に難易度が高かったとされます。

先述したように犯人の正体がわかっていたとしても、仇討ちをするためには犯人の居場所を突き止めなければなりません

そのため仇の居場所がある程度わかっていた赤穂浪士のような例外を除けば、仇討ちの第一歩は犯人の捜索から始まったのです。

交通機関が発達し、監視カメラが町中に張り巡らされている現代ですら半世紀近く逃げ続けた指名手配犯がいることを考えれば、これらの文明の利器のない時代においてたった一人で犯人を突き止めることがいかに困難かわかるでしょう。

東映京都撮影所、東山の金さんの舞台セット。江戸時代の事件は時代劇のような明快な解決はなかった。
東映京都撮影所、東山の金さんの舞台セット。江戸時代の事件は時代劇のような明快な解決はなかった。 / Credit:Wikimedia Commons

また仇討ちと似ているものとして、妻が不倫をした場合その妻と不倫相手を殺害する女敵討ち(めかたきうち)というものもありました。

女敵討ちは武士だけではなく庶民がすることも公に認められていたのです。

現代の感覚だと不倫で殺されるのはいささか罪が重すぎるかのように思えますが、当時は不倫が公的に証明された場合は双方ともに死罪が言い渡されていました。そのため女敵討ちだけがそこまで厳しいわけではありません。

また当時も示談による離婚や慰謝料の支払いで不倫を解決する場合もあり、不倫が発覚したら絶対に死ぬというわけではありませんでした

一方武士の場合も離婚や慰謝料の支払いという形で穏便に済ませるケースもありましたが、ひとたび武士社会の間で妻の不倫が発覚した場合は、社会的に強制される形で女敵討ちを強いられることになっていたのです。

これによって武士は「妻を寝取られた男」という汚名をそそぎ、家の名誉を回復させなければなりませんでした。

ほとんど行われなかった無礼討ち

早川松山の「生麦之発殺」、ここで描かれている生麦事件は大名行列を馬に乗ったまま横切ったイギリス人を薩摩藩の武士が無礼討ちしたというものである。
早川松山の「生麦之発殺」、ここで描かれている生麦事件は大名行列を馬に乗ったまま横切ったイギリス人を薩摩藩の武士が無礼討ちしたというものである。 / credit:Wikipedia Commons