ところがポツダム宣言には「迅速かつ完全なる破壊あるのみとす」と抽象的に書かれているだけで、スターリンの署名はなかった。それが日本政府に「これは最後通牒ではない。ソ連が最後の頼みだ」という誤ったシグナルを送ってしまった。
日米戦争が終わり冷戦が始まったトルーマンがスターリンを除外したのはなぜか。それは7月17日に核実験に成功し、ソ連の参戦がなくても日本は降伏すると考えたからだ。トルーマンは7月18日の日記にこう書いている。
ロシアが参戦する前に日本は参ってしまうものと思う。マンハッタン(原爆)が日本の本土上陸に登場すれば、日本は参ってしまうと確信する。
それまでソ連の協力なしに日本を降伏させることはできないと思っていたトルーマンは考えを改め、ソ連の参戦前に原爆を投下することを決意した。ポツダム宣言でソ連の参戦を明らかにしたら、和平の希望を断たれた日本政府はポツダム宣言をただちに受諾し、原爆を投下するチャンスがなくなってしまうからだ。
ポツダム宣言の即時受諾は、軍部が本土決戦(決号作戦)を準備し、国民のほとんどが本土決戦を覚悟していた当時は不可能だった。天皇と外務省の意見は一致していたが、軍部を説得することが最大の難関だった。
原爆投下とソ連参戦のどっちが決定的だったかについては専門家の意見もわかれているが、原爆投下なしでは「聖断」は不可能だったと思う。それはソ連参戦という外交上の変化だけでは本土決戦を呼号する軍部を説得できないからだ。
米統合参謀本部の日本分割統治案(Wikipedia)
日本にとっても8月上旬はぎりぎりのタイミングだった。あと半年、降伏が遅れていたら米軍やソ連軍が本土に上陸し、日本は朝鮮半島のように分割されたかもしれない。日本列島を英米中ソで4分割する案も、統合参謀本部で検討されていた。
原爆投下は日米戦争の終わりであるとともに冷戦の始まりだった。もちろん原爆は国際法違反の無差別爆撃だが、日米の犠牲者を最小化し、日本の分割を防ぐ上では意味があったともいえよう。
