スティムソンの起草した原案には、政府の形態として「現在の皇室のもとでの立憲君主制を含む」という言葉があったが、バーンズ国務長官がこの言葉を削除したため、宣言には「日本国国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有しかつ責任ある政府」の樹立という抽象的な条件が書かれただけだった。
それはなぜか。ポツダム宣言を受諾させるために原爆を投下したのではなく、その逆だったからだ。原爆投下はポツダム宣言の前日の7月25日に決まっており、それを正当化するためにポツダム宣言を出した、というのが長谷川毅の見方である。
したがってポツダム宣言は拒否される必要があった。日本政府がポツダム宣言を受諾すると、原爆の開発に費やした20億ドルの予算が無駄になるからだ。日本軍の特攻で多大の損害をこうむった米軍にとっても、この狂気の軍隊が通常の戦闘で降伏するはずがないので、原爆投下は自明の方針だった。
ソ連の参戦は決定的な条件だったかそれに対して、ポツダム宣言受諾の決定的な条件は原爆投下ではなくソ連の参戦だったという説もある。日本政府はスターリンに英米との和平仲介を求め、近衛文麿を特使としてモスクワに派遣するつもりだったが、ソ連に拒否された。それは当然だった。ヤルタ密約では、スターリンは参戦を約束していたのだから。
したがって8月9日のソ連参戦は、日本政府にとって青天の霹靂だった。これで名誉ある和平が不可能だとわかったので、10日の御前会議で「聖断」が下り、ポツダム宣言の受諾が決まった。
これは昭和天皇の個人的な判断ではなく、内外の状況を分析した外務省の結論だった。陸軍将校の一部は最後までこれに抵抗し、重臣を軟禁して天皇に直訴するクーデタを計画したが、阿南陸相はこれを承認せず、空振りに終わった。
それにしてもポツダム宣言を出す前に原爆は完成し、ソ連の参戦も決まっていたのだから、アメリカ政府が本当に戦争を終結させるつもりだったら、宣言に「受諾しない場合は大量破壊兵器を使用する」などと明記し、スターリンも署名すべきだった。