織田長益は千利休門下の茶人として知られ有楽斎と呼ばれた。東京有楽町にその名を残す。大坂城にあったが夏の陣を前に退去した。関ヶ原の戦いのあと摂津味下で3万石を得たが、のちに、五男織田尚長の戒重(のちに芝村)、四男織田長政の柳本の2藩に分かれた。長益の長男織田長孝も美濃野村で1万石を得たが、無嗣断絶となった。

織田長益 Wikipediaより
津田姓は織田一族が多く名乗るが、盛月は信長に仕えたが柴田勝家との争いで刃傷事件を起こして秀吉に匿われた。嫡男の信任は山科での千人切りの嫌疑で改易、次男の津田信成は山城三牧1万3千石だったが、京都で稲葉通重らとともに酒に酔って富商の婦女たちに集団暴行に及び改易された。
江戸の殿さま全600家 創業も生き残りもたいへんだ