それに替わって、宗家らしき地位に立ったのが、信雄の系統である。しかし、信雄の嫡男である織田秀雄は、秀吉から越前大野五万石をもらっていたが、関ヶ原の戦いの結果、改易され断絶。一方、父親の織田信雄は大和松山に五万石を得て、寛永七年まで生きたが、1616年には四男織田信良に上野小幡で2万石を分与し、松山の遺領は5男の高長が引き継いだ。どちらを宗家というかは微妙だが、高長家が信雄の遺領を引き継いだ。高長の孫である信武は元禄年間に諫言を行った重臣を殺害して自刃し、減封されたうえで丹波柏原に移された。この騒動を「宇陀崩れ」と呼ぶ。

織田信雄 Wikipediaより

一方、信良家は、明和年間に尊皇思想の持ち主である山県大弐が弾圧されたときに関係したとして出羽に移された。最初は高畠にあったが、天童に落ち着いた。戊辰戦争では当初、官軍についたのだが、庄内藩などから攻撃を受けて城下を焼かれ、同盟側に参加を強要された。

信長の3男以下のその後は、以下の通りである。信孝は信雄と争い自刃。秀勝は秀吉の養子となり、丹波亀山城主となるが1585年死去。勝長は二条城で兄信忠とともに討ち死。信秀は秀吉の死と同じころまで存命していたようだ。信長が晩年に気に入っていたらしい側室お鍋の方の子である信高の子孫は旗本として存続。信吉は関ヶ原で西軍に属して失脚。信貞の子孫は旗本及び尾張藩士。信好は消息不明。長次は関ヶ原で戦死。

信長には多くの兄弟があったが、江戸時代に大名として残ったのは、信秀六男の織田信包と11男の長益の家である。信包は伊勢の豪族長野氏を一時、嗣いで安濃津(津)城主となり、のちに丹波柏原に移った。孫である信雄の死後、無嗣断絶となった。このほか、信包の長男である織田信重が慶長年間に伊勢林で1万石を得たが、父の遺領を弟の信則が嗣いだことを不満として争い除封された。

織田信包 Wikipediaより