教育勅語改訂の動きと「新勅語案」
明治40年代、西園寺は教育勅語の内容が現代の国際社会に対応していないと考え、改訂または新勅語の制定を試みた。彼の構想には、女性の地位向上、国際理解、個人の自立と責任といった近代的価値観を盛り込む意図があった。
保守派はしばしば「西園寺の個人的見解」としてこの改訂構想を退けるが、明治天皇の理解と了解があった可能性は高い。というのも、西園寺のような元老・首相経験者が、天皇の明確な意向なく勅語のような「聖域」に手を加えようとするとは考えにくく、実際、勅語の性質上、天皇の裁可なくして草案作業に着手することは制度上不可能である。
西園寺は1896(明治29)年に明治天皇に対して教育勅語補正案の構想を上奏し、内諾を得たのであって、竹越与三郎『陶庵公』や『西園寺公望自伝』に明記されている。
計画が実現に至らなかった主因について、「保守派の反発による」という向きもあるが、これは、1906年の毎日新聞記事から流布されているようだが、単なる推察で根拠が示されたことはない。
「伊藤博文が慎重であった」とする人もいるが、これも、憶測に過ぎない。もちろん、進めるについては拙速は避けようとしただろうが、それは否定的だったことを意味しない。
むしろ、伊藤が第2次内閣において西園寺を文相に任命し続けたことは、西園寺に対して伊藤が反対していたわけでないことの有力な補強材料である。
ところが、まもなく西園寺は外相を兼任したり、渡仏したりし、政友会総裁となり、さらには、首相になった。一方、1912年には明治天皇が崩御され、そうなると、勅語を改訂することが難しくなってしまったのである。
それでは、改正案の内容はというと、以下の通りだった。
教育ハ盛衰治乱ノ係ル所ニシテ国家百年ノ大猷ト相ヒ伴ハザル可カラズ。 先皇国ヲ開キ朕大統ヲ継キ旧来ノ陋習ヲ破リ、知識ヲ世界ニ求メ上下一心孜々トシテ怠ラズ。 此ニ於テ乎開国ノ国是確立一キヲ致セリ。 朕曩キニハ教育勅語ヲ発シ以テ国民道徳ノ本旨ヲ示セリ。 然ルニ近時教育ノ風漸ク変ジ、或ハ勅語ノ趣意ヲ誤解シ、或ハ之ヲ軽視シ、或ハ之ニ悖ルモノナリ。 今ヤ列国ト条約改正ヲ議スルノ秋ニ当リ、国民ノ態度寛容ニシテ礼譲ヲ守ルヲ要ス。 又女子教育ノ充実ヲ図リ、其ノ社会的地位ヲ高メ、青年ノ驕慢ヲ戒メ、謙抑博愛ノ徳ヲ養フヲ要ス。 此時ニ当リ、朕特ニ教育ノ本旨ヲ補正シ、以テ新時代ニ応ゼシムルヲ欲ス。 爾有衆、宜シク朕ノ意ヲ体シ、各其ノ職ニ勉メヨ。