右も左も間違いだらけの教育勅語論争
参政党が新憲法草案(「新日本憲法(構想案)」)において「教育勅語など歴代の詔勅、愛国心、食と健康、地域の祭祀や偉人、伝統行事は教育において尊重されなければならない」としたことをきっかけに教育勅語論争が巻き起こっている。
この問題については、私はかねてより、教育勅語は、文明開化の進展に伴う道徳的混乱を憂慮された明治天皇の指示で、井上毅が近代思想と伝統思想の調和を図って起草したもので、その時点では中庸を得たものだったが、明治末年には時代遅れであることが認識されており、改訂が予定されていたが、明治天皇の崩御で機を失い不磨の大典化し、とくに軍国主義の時代に多くの弊害を生んだものだとしてきた。
従って、これを現代にも通じる素晴らしいものだというのは論外であるし、一方、もともと前近代的なものと見るのもどちらも間違いだと論じてきた。
そこで、この問題について、何回かにわけて論じたいが、まず、議論の核心であるがああまり知られていない西園寺公望による改定案の内容と経緯を紹介しようと思う。
教育勅語が制定されたのは、1890年(明治23年)である。明治の新教育を受けた子どもたちが、自分の名前を書けるのが人口の半分しかいなかったというとんでもない教育後進国だった江戸時代に育った親や兄たちを馬鹿にするので、年長者を敬い家族を大事にするようにさせたいと明治天皇が願ったのである。
明治20年頃はフェノロサや岡倉天心が出て、文化財保護が始まったり、洋画だけだった美術教育に日本画がはいったり、怒濤のような文明開化が一段落した時代であった。
つまり、教育勅語は、封建主義国家から近代国家の国民としての意識が変化する移行期の心構えを入れたという極めて時事的要素の強いもので、当時としては上出来だが明治末期には時代の要請にそぐわなくなって改訂が目指された。
20世紀初頭、国際情勢の変化や近代化の進展に伴い、教育勅語の時代的限界を指摘する声が一部の政府高官から上がるようになった。その中心人物の一人が、当時の文部大臣・西園寺公望である。

神谷宗幣代表 参政党HPより