そもそも著者の渡辺清が1941年、高等小学校を出てすぐ海軍に志願したのも、次男に生まれて地元では継ぐ家がなかったからだ。マリアナ、レイテ沖海戦に従軍して戦艦武蔵の轟沈を体験し、敗戦でようやく復員するも、自らマッカーサーに屈した昭和天皇の変節に衝撃を受ける。
このとき「陛下もお辛いなかで頑張っている」と自分を納得させたのは、1932年生の江藤淳だけど、25年生だった渡辺はそうはいかない。なにせ三島由紀夫と同い年である。信じてきた天皇の「裏切り」に怒髪天を突き、共産党よりも一本気で強硬な天皇制の批判者となる。

国が亡び、父が消えたあと、人はどう生きるのか:『江藤淳と加藤典洋』序文③|與那覇潤の論説Bistro
戦後80年の今年4月、特使として米国との交渉に臨む赤沢大臣が、トランプ大統領との対面に感動して「格下も格下」と自称し、MAGAキャップ姿の写真も撮られて、物議をかもす騒ぎがあった。
「大臣は格下じゃない」立民・徳永エリ氏、「格下」発言に苦言 赤沢亮正氏は「理解して」
赤沢亮正経済再生担当相は21日の参院予算...
発売中の『文藝春秋』8月号の連載「保守とリベラルのための教科書」では、戦争責任論のオーソドクスな文脈で、本書を採り上げた。そちらのリンクを貼る前に、最後に紹介したい挿話がある。
軍艦の寄港地だった横須賀の一家に助けられて、渡辺は農学の教授を手伝う職の口を見つけ、村を出てゆく。復員した仲間どうし、ささやかな別れの席を持つが、そのとき渡辺はこう思う。
邦夫も晋太郎もおれのことを「日本左衛門」と言ってさかんにうらやましがっていた。日本左衛門というのは、このへんでは二、三男(おんじ)のことを言う。
日本中どこへでも行きたいところへ行って好き勝手なことができるという意味だが、二人とも家にしばられている長男だけに、おれのような身軽な次男坊がよけいうらやましく見えるらしい。