自民党は、早くも1994年に、既存政党同士の連立を社会党との間で形成して、選挙をへず政権を奪還した。その後もしばらく政権を維持するが、単独で過半数を獲得することが困難であるため、連立を組み続けるのを常態とするようになった。政党支持率は3割前後が通常であった。
社会党の村山内閣に続いた橋本内閣は、日米同盟の再定義を進め、自民党の伝統である親米政党としての安心感を前面に出す戦略をとった。これがさらに奏功したのは、「自民党をぶっ壊す」と主張しながら、2001年から2005年までの首相在任中に目に見えた自民党の支持率の向上を成し遂げた小泉純一郎氏である。
「対テロ戦争」の踏み込んだ対外政策をとるアメリカのブッシュ政権に対する全面的な支持を掲げ、「対テロ特措法」「イラク特措法」などに代表される路線をとった。その一方で、行き詰まり感のある国内政策の面では、「改革」を掲げて、既存の自民党の政策を改変するのは、むしろ自分であるという主張を繰り返した。
しかし小泉氏が退陣すると、自民党の支持率は下降傾向に入り、2009年には民主党に政権を譲って、下野した。しかし民主党がアメリカとの関係維持に苦慮して支持率を下げると、2012年の総選挙で自民党が勝利し、安倍晋三氏が首相に就任した。
安倍氏は、平和安全法制の成立に代表される日米同盟の堅実化に着手した。繰り返し祖父の岸信介氏が新安保条約の成立を主導した事例を参照することによって、冷戦時代の構図の再生を図り、結果的には、日米同盟の強化を、高い支持率を維持する長期政権の基盤とした。国内的には、小泉氏にならって、自民党の既存の政策を改革する「アベノミクス」路線を前面に出した。
しかし安倍氏の退陣とともに、自民との支持率はあらためて下降傾向に入る。岸田文雄前首相は、安倍政権で長く外相を務めた経験も活かし、親米路線を新たに再確認する姿勢をとった。しかし現実には、その政策は、ウクライナ支援と、欧州諸国が多数を占めるNATOへの接近といった形でしか表現されなかった。「今日の欧州は、明日の東アジア」というレトリックは、必ずしも否定されたわけではなかったとしても、仮説に基づく抽象度の高い命題で、岸田内閣の支持率の向上にはつながらなかった。