自らの行為を無視して「一方的な被害者しぐさ」をしている姿が、放送局の取材者やスタッフ等への攻撃の呼び水となっている側面はあると言わざるを得ないでしょう。
「尊厳の時代」から、弱者を装う被害者の持て囃しの時代になってるということを林智弘氏が【「やさしさ」の免罪符 暴走する被害者意識と「社会正義」】で紹介していましたが、メディア自身が弱者を装うのはなんなのか。
もっとも、過激な取材等をする者と、そうではない善良な取材記者・スタッフ等にはズレがあり、後者が前者の割を食っている面があるのではないか?と思わざるを得ない状況があります。
特に、テレビ局のアナウンサーや司会者は、番組の方針に基づいて進行・発言し、画面に映っている時間が多いがために標的になりやすく、明らかに責任の無い点についてまで謂れのない非難を受けている場面をSNSではよく見かけます。
「社会の期待」に甘えるのではなく、事実報道による正確な認識を伝えよ
今後も社会の期待に応える報道・番組制作を継続していきます
声明の最後にはこのようにして締めていますが、「社会の期待に応える」って、どうとでも取れる文言なんですよね。
「お前らがスキャンダル好きだから報じてやってるんだよ」という意味にもとれます。需要の問題で、スキャンダルや性犯罪ばかりインプレッションが高くなってる現状に阿っていたら、まともな報道はなくなります。
普通に「事実を正確に報じます」とは、決して言わない。
日本のジャーナリストは「事実をありのまま伝える」がそれほど重要視されず、「政治監視」を重視しており、他国と比べて極めて異質な構造となっています。
政治監視の結果が「裏金議員」という、事実に反する情動的なレッテル張りに。
「やさしさ」の免罪符 暴走する被害者意識と「社会正義」85p
自分たちの神話を成就させるため「フクシマ」の…不吉な「予言」を繰り返した。一方で、「予言が外れた」こと、安全性を示す知見や、平穏に暮らす現地の人々を無視あるいは否定した。自分達の身勝手な-もはや呪いと呼ぶべき「物語」…を執拗に求めた