どんな人も一日に数多くの判断をしながら生活をしていると意識したことはありますか?例えばスーパーマーケットやコンビニで何を買うか、今日は何を食べるか、この本を買うか、車を運転していてどの道で行くか、夏休みは何をするか…思っている以上に判断に次ぐ判断の中で生活しています。

もしも我々が今、1960年代に戻ったら日々の判断は今の半分以下かもしれません。それは選択肢が非常に限られており、毎日を必死に生きることが一日の多くを占めていたからでしょう。労働時間も当時は実質で10-12時間はあったと思います。また会社の人とのお付き合いも多く、家には寝に帰るだけ。週末は疲れてぐったりしていた生活をされていた方はこれをお読みの方にはかなりいらっしゃるはずです。そこには判断する余地すらなく、とにかく何でもよかったのです。昼飯は立ち食いそばで3分で終える、上から与えられる仕事はその是非を問うことなく「上からの指示だ!」だけです。私も当時、社会倫理性に欠けるような業務であっても特命係として有無を言うことなくやっていました。

最近ある女友達から離婚の相談を受けました。これは正直、研究として興味深いケースです。女性が女性同士で相談する場合、「そうよねぇ」という同調が多くみられます。相談する側の女性はある程度自分の気持ちに同調する意見を聞くと「心地よくなる」点は心理学的に解明されています。つまり女性は自身の考えに同意を求める傾向が強く、意見されることを求めていないのです。では異性だとどうなるのか、ここは単純ではありません。

私は日常生活の判断はかなり適当ですが、ビジネスの判断はシビアに考えます。つまりある岐路に立った時、それぞれの長短を考え、計画の現実性や将来の起こりうるベネフィット、そこに至るリスクを推測した上で答えを出します。その際に難しい判断の場合は一晩から一週間ぐらい寝かせるという手法も取ります。それはある事象に対して判断する際に過剰な感情反応を示しやすいからです。嫌なことを言われたら相手により過激に言い返すというのは典型的な例ですが、一晩経って考えれ見れば「ちょっとやり過ぎたかな」と思うことはよくあるでしょう。