黒坂岳央です。
多くの人は、誤解されたときに必死になってそれを解こうとする。だが、その大半は徒労に終わる。なぜなら、そもそも人は他人を完全に理解することなどできないという前提があるからだ。筆者はそれをよく理解しているため、誤解されても基本的には放置するようにしている。
これは家族や兄弟といった近しい関係ですら同様である。言わずもがな赤の他人はお互いに誤解はつきものだ。人は常に自分の価値観、思い込み、経験というフィルターを通して相手を解釈する。したがって、誤解は避けられない。
そして、9割の誤解は訂正しようとする労力はあまりにも膨大で、報われないことが多い。したがって、「解く必要がない誤解は放置」という選択は合理的だと思っている。

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誤解を解く9割の努力は無駄だ
筆者は記事を書いたり動画を出している。毎回、なるべく誤解されないように自分では必死に頭を使って書いているし、独りよがりにならないように多面的な視点を意識している。最近はAIを使って書いた記事を読者の視点で印象や誤解の余地を確認するようにしている。
だが、それでも依然として誤解はゼロにはならない。「お前は間違っている!」という怒りの声を消すことは不可能なのだ。
もちろん、書き手である筆者の表現力不足は否定しない。だが、読み手が「自分の見たいようにしか見ない」のであれば、いかなる説明も無意味である。書いていないことを読み取り、書いてあることを無視するような相手に対しては、いかに論理的に精緻な文章を投じたところで徒労に終わる。こうした誤解は放置でよい。
駆け出しの頃は、そうした声にも1つ1つ丁寧に対応していた。だが、実際には相手が記事をろくに読まず、タイトルだけで判断しているケースも多かった。中には、論理的に説明を尽くしても「でもお前は性格がダメ」などと人格否定で返してくる人もいた。こうしたやり取りは極めて消耗するうえ、建設的な結果につながった試しがない。