20代の内は多少、失敗をしても「まだ若いから」と笑って許されやすい。自分自身も目を覆いたくなるような仕事の失敗やひどいふるまいをした経験があるが、周囲から何度も許されてきた感覚がある。

若ければ多少の失敗をしても許容されるのは、「未熟であること」が周囲の共通認識となっているためである。「これから伸びる可能性」に期待され、育ててもらえる。

その一方で、40代以降になると、今手にしたものしか評価されず、今後の伸びしろなど期待されなくなる。すでに完成された人物としての振る舞いが暗黙のうちに求められるのだ。その結果として、何か一つでも「できていない」部分があれば、20代以上に厳しく評価され、たった1つの失敗が蓄積した信用を一発で吹き飛ばすインパクトがある。

40代の生きづらさとは周囲からの期待値が高くなることで、失敗が許されなくなる緊張感から来ていると思うのだ。

人生経験が浅いまま年を取る厳しさ

たとえば飲み会で気遣いができない場合、20代なら優しく教えてもらえるだろう。だが、40代で気遣いができないともうそれだけで「仕事ができない人」という評価になる。本来、飲み会での気遣いと仕事は関係ないはずだが、「年相応に振る舞えないダメージ」はこうも甚大なのだ。結婚式やお葬式などの振る舞いも同様だ。

しかも仕事や人生経験が浅いまま40代になると、「未経験なので練習をしたい」と思ってもできるチャンスがない。そもそも、失敗した事自体を教えてもらえない。

これは「年齢による経験の蓄積」を前提にした期待値がもたらすプレッシャーであり、過大評価であると同時に、評価の幅を著しく狭める構造でもある。

「一人で自由気ままに生きたい、仕事よりプライベート優先、飲み会やイベントは無駄」と面倒事を避け続けていると、人生経験が浅い中年になる。そうなると誰も救いようがない人生の袋小路になりかねない。

「劇的な変化」は年齢で起こらない